Tempestoso




 いつだっていつまでだって、彼女はうつくしい。はじめに彼女を見つけたときからそうだった。中学校の入学式、二つ年下の生徒達が同じ制服に身を包んで体育館へ入ってきた。紺色のセーラー服、臙脂色のスカーフ、白いソックス、黒の革靴。葬列のような詰め襟を着た男子生徒の横にあって、白い顔と細い首、華奢な肩が儚く映る少女達。ただそうしてあるだけでも連星の目映さをたたえている少女達の中に一際目を引く絵姿があった。陶器と見まごうような白くきめ細やかな肌の頬と鼻の頭だけをほんのわずか赤くして、そこらの女が口紅を引いたのよりも赤い唇を軽く引き結び、真っ直ぐ前を向き、列を乱すことなく歩いている。肩口に切り揃えられた黒髪は彼女の歩みに合わせて揺れ、緑色に艶やかだった。まっすぐ前を向いているまなざしは、誰にも何にも関心など払っていないような冷たさを漂わせていた、それが、彼女だった。僕は彼女を、彼女だけを、ただその列の中から見つけた。二つ年下と思えぬような、うつくしさだった。見つめている間、息をすることさえ憚られるようなうつくしさだった。彼女はひどくうつくしかった、自分と同じカテゴリに属する生き物であることが信じられなかった。生き物でないのではないかと、疑いを抱きたくなるほど。いや、疑っていたのだ。同級生が後ろから、うちの妹が居るんだほらあそこの、と彼女を指さすまでは。うつくしい彼女は、僕の同級生の妹という、あまりにありふれた呼称を与えられて、僕の通う学校にやってきた。
 僕の入学式での体験とかけ離れて、彼女は全くと言って良いほど学校の中で関心を払われることがなかった。誰も放っておかないだろうと、少なくとも僕が同級生だったならば声の一つもかけるだろうと思うのに、彼女はいつどこで見かけてもひとりで居た。例外というのは僕の同級生たる彼女の兄ぐらいのものだ。はじめはそうして彼女がひとりでいることが不思議だったが、同級生を通じて彼女を間近で見る段になって、ようやく、彼女が彼女の同級生から離れてひとりで居る理由を、分かった気がした。近くで見ても彼女のうつくしさには変わりがなかった。変わりがなさ過ぎて、息を止めたまま戸惑った。彼女は確かに其処にいて、彼女の兄と言葉を交わしている。廊下にはうすらと彼女の影が伸びている。赤い唇はうすく開いて、同級生の話に相槌を打って笑っている。彼女は確かに其処にいるのに違和感があった。自然に緩んだ彼女の口元にわずかに出来た窪み、ほんのわずか高くなった頬骨のてっぺんのささやかな赤み、それらあって然るべきものが彼女にあることに、僕は違和感を覚えていた。それで僕は、同級生が僕を手招きしたのへ首を横へ振った。他の生徒達が僕と同じ理由で彼女の側へ行かなかったのかは定かではない。ただ僕は、困惑した様子の同級生を見つめる彼女が形の良い眉の間にほんのわずか皺を寄せる、その仕草もまた受け容れがたかった、それだけなのである。僕が、その頃の彼女へ近付くことをしなかった理由というのは。彼女の兄と親しくなることで、彼女が僕と同じ学校で過ごす姿を遠くから見守ることだけはしていて、それが僕にとっての安全線とでも呼ぶべき距離であった。同級生が朗らかな声をあげて手を振る先で、彼女はいつもひとりで居た。
 彼女がひとりで居ることの意味が変わり始めたのは、夏休みを終え、二学期が始まってからのことだったように思う。まだ太陽の照りつける日中の暑さが厳しく、ジージーと蝉の鳴く声がうるさい頃、よせばいいのに体育大会の練習とやらで、乾いた土埃の煙るグラウンドに、日に焼けた生徒達が駆けていた頃。彼女は白い肌を惜しげもなく日の光の下にさらしていたが、白い肌に映える様々な色の花がそこへ咲いていた。黒ずんで青い大きいものから、虫さされがおびただしい数集まったような赤いのまで、彼女の腕と脚は、日に日にそのような花に彩られていった。彼女のまなざしはそれまでより一層怜悧さを増していて、彼女の兄たる僕の同級生が叫んでも、反応しないことがあるほどだった。僕の同級生はそんな彼女を見るにつけ困惑と悲壮をきわめたような表情でもって、彼女の上に花を咲かせた輩への恨み言を吐き連ねていた。あんなになってもあいつはなにもいっちゃくれない、そのくせしてがっこうにはいくというし、くるたんびにきずはふえてるのに。要するに、同級生は彼女が所謂いじめというのに遭っていると考えたのだし、客観的に見てもそれは正解だと思われた。しかし、いじめを受けているはずの彼女が何も言わないから、彼女の肌にいろとりどりの花を与えた人物達を罰することも出来ないのだと、同級生は嘆いていた。しかし、うつくしい彼女がそんな些事に関心を払うだろうかと僕は疑問に思っていた。日に日に彩りを変えていく彼女の肌の上の花は、彼女の美しさをちっとも損なっていなかったのだから。僕は、彼女もそのことを知っていると思っていた。だからこそ、彼女は心配そうに自分へ声をかけてくる兄の声に一切の関心を払わないのだろうと思っていた。
 僕の考えが真実だったかは分からない。誰が知る由もない。僕はその考えを誰かに話したことなどなかったし、勿論彼女に確かめたこともなかった。そもそも、彼女は僕のことを知らなかっただろう、名前も顔も当然僕の声も知らなかったに違いない。僕は彼女と知り合うことのないまま、ようやく蝉が鳴き終わり日射しの厳しさがなりをひそめてきた頃、グラウンドで行われるかけっこ遊びが終わりを迎えるその日、彼女はひとり死んでいた。体育館の屋上から身を投げて今まで見たことのないような真っ赤な花を草むらの隅に咲かせて、ひとり死んでいた。はじめにそれを見つけたのが僕だった。体育倉庫の鍵を開けなければいけないからというので、体育館の裏手を横切ろうとして彼女が咲いているのを見つけた。昨日までの白い肌の上の色とりどりの花こそ見えなくなってしまっていたが、彼女自身が真っ赤な花の中心としてそこにあった。腕や脚は動物としては見当外れな方向にねじ曲がっていたが、花弁としてはそれが最適であるような位置にあった。彼女の冷たいまなざしが僕を見ていた。確かに僕を見ていた、あの瞬間彼女は僕を知ったのだろうと確信できる風に、彼女の二つの眼球が僕のことを見ていた。僕がうっとりと彼女と見つめ合っていたのがどれくらいの時間だったのかは分からない。これを教師に報せに行かねばならないと現実的な対処をようやっと考えついて我に返ったのだが、そんなことをしたら彼女のまなざしが奪われてしまうとそれを押しとどめようとする自分の声が別な方から聞こえてきて、一度は走り出そうとした僕の足をその場へ縫い付けた。彼女はまだ僕を見つめていて、彼女がメデュサで僕はそれに睨まれて石になってしまったのだという空想が脳裏を過ぎった。真っ赤に咲いた彼女とふたりきりという状況にまだ青かった僕は酔っていたのだ。草むらをかき分けて近付いてくる無粋な足音と絹を裂くような悲鳴で、僕らの密会はあえなく終わりを迎えた。彼女の最後の一花が僕以外の目に触れた証拠であるそれらの音に、僕は深々と、ため息をついていた。
 彼女をこの世から消し去ってしまうための儀式はひっそりと執り行われ、本来なら僕が参加できるはずもなかったのだが、同級生の口添えがあったのか、なんなのか、今でも理由ははっきりとは分からないものの、僕はその場に居た。黒い額縁の内側の彼女はひとりで居るときと同じ、白い肌と怜悧なまなざしをして、その場に居るひとびとを遍く見下ろしていた。僕が最後に見た本当の彼女の赤さの欠片も見あたらなかった。炎の中から帰ってきた彼女も同じだった、見当たるのはからからに乾いた白色ばかりで、その白色さえもうつくしくはあったのだけれども、彼女のまなざしはどこにも感じ取れなかった。長い箸でひとつずつ彼女だった白い欠片を摘んでいく大人たちや同級生や招かれた数少ない制服に身を包んだ子供らは、一様に押し黙っていた。みんな、自分の手元しか見えていないようだった。だから、きっとばれないのではないかと僕は考えたのだ。長い箸で摘んだ彼女だったものの白い欠片を、こっそり、床の上に落とした。それを帰り際に拾い上げて、制服のポケットに入れた。言葉少なな同級生と別れたのは駅前だったと思う。そこから家までの道を僕はひとりで歩くことになって、ポケットに手を入れて、乾いた白い欠片をそっと取り出した。彼女の肌のきめ細かな白色にはほど遠いくすんだ白色だった。橙色に燃える空を後ろにしてその欠片を眺めながら、とぼとぼとひとりで歩いていると、何だか無性に寂しくなってしまって、僕はその欠片を口に入れた。手に摘んでいるときには軽いけれどもかたい輪郭を保ってそこにあるように思われたのに、僕の唾液を含んだ途端、欠片はやわらかくなって、僕の歯で簡単に砕けて、舌の上でざらつく粉になった。僕が噛む度に少しずつ確実に細かく砕けていく白い欠片がもう砕ける部分もなくなったところで、僕は、唾液と混ざった白い欠片だった粉をひと思いに飲み込んだ。飲み込んだ後、喉の奥からせりあがってくるような苦みが口の中にひりついた。けれども、他の部分はひどく清々しく、楽になったように感じた。知らず、緩慢になっていた歩調を早めて家へ帰り着いて、自分の部屋がある二階への階段を登る足取りも軽かった。
 部屋の扉を開けて電気をつけたら、彼女がそこにいた。うつくしいままの姿で、彼女がそこに座って僕をじっと見上げていた。
 彼女は僕の知らないはずの彼女の声色で「鼎さん」と彼女の知らないはずの僕の名前を呼んでゆるやかに首を傾げると赤い唇を薄く開いて「おかえりなさい」と僕へ向けていって微笑んだ。彼女の口元にわずかな窪みが出来て白い肌に小さな影が映っていた。それは彼女には不要なものだ。部屋の扉を閉めて、僕は彼女のそばにしゃがみこんで彼女の細い首に自分の両手をあてがって、彼女を床に押しつけた。両手に体重をのせて、彼女の首の中にある空気の通り道を圧迫した。彼女は何も言わなかった。うめき声すらあげなかった。けれども肩は強ばっていて、足はばたばたと動いていて、それらがすっかり落ち着くまでには少し時間がかかった。自分の息の音以外は静かになったところで手を離してみれば、彼女の首筋には手の形をした痣がくっきりと鮮やかに、彼女の腕や脚にあったのと同じように残っていた。彼女のまなざしはもう僕をとらえてはおらず瞼はおりてしまっていたが、頬と唇の赤さは茜色の日射しの元でもそうと分かるほどに鮮やかに残っていた。静かになった彼女は僕の部屋にひとりでいてうつくしかった。彼女を床に横たえたままで、僕は部屋のカーテンを閉めて、ベッドに上り、ふとんに潜り込んだ。頭のてっぺんまでふとんを被って、膝を曲げて背中を丸めたところではじめて、自分が震えていることに気が付いた。その理由はすぐに分かったが分からなかったようなふりをしていた。彼女がそこに眠っていることを知っていたからだ。手と脚の指先の冷たさと全身の震えに気付きながらも気を失うような眠りは存外に早くやってきて、次の朝自然と目が覚めるまで目覚めることも夢を見ることもなかった。僕はまだすっぽりとふとんを被ったままで、ゆっくりとふとんからはいでると、「おはようございます」と鈴を転がしたような声がした。彼女がそこにいた。昨日僕が首を絞めて静かになったはずだった彼女がそこに座ってゆるく首を傾げて「鼎さん」と僕の名前を呼んだ。ああまたはじめからしなければいけない。そう考えながら僕はベッドから降りて彼女に近付き、その側にしゃがみこんで彼女の首に手を伸ばした。昨日と同じことをくり返すために。
 そんなことがあってからもうずっと、彼女は僕の部屋にいる。
 僕が何をして彼女を黙らせても、気が付けば彼女はまた僕の部屋の床に座っていて、うつくしい顔に笑みを浮かべながら赤い唇を動かして僕の名前を呼ぶ。
 毎日のように首を絞めてもかつて彼女が学校でそうされていたみたいに白い肌にいろとりどりの花を咲かせるまで殴りつけてもはさみで肌をずたずたに切りつけてみても庭から持ってきた植木鉢を頭の上に落としてみても彼女はまたそこに居る。そこに座って僕を見上げている。怜悧なまなざしを緩めて口元に少し窪みを作りながらそこに居る。それでも彼女はうつくしい、うつくしいのに間違いはないのに、何をしてもそうしてそこに戻ってきた彼女はうつくしいのに、僕は心底彼女が恐ろしくなっていて、けれども彼女がそこにいないことを考えることの方がよっぽど恐ろしかった。彼女の柔らかな首筋にはじめて自分の指が沈んでいくときのなんともいえない蠱惑的なかおりのするやわらかさをもう二度となくしてしまうことの方が恐ろしかった。本当のところをいえば恐ろしいのかどうかもよく分からなくなっていた。けれども、そうやって自分のこころに名前をつけておかなければ僕はそれ以上に自分のことがよく分からなくなってしまいそうな気がしたから、僕は恐ろしいのだと自分に言い聞かせるようにしていた。
 ついさっきのことだ。目が覚めて横を向いたら、彼女がいつものごとくそこに座って僕を見ていた。ただ、不思議なことに、彼女の表情がいつもと違っていた。はじめて彼女を見たとき、何にも誰にも関心を払っていないような、透明なまなざしでもって彼女は僕をとらえていた。目が離せなかった。この部屋では初めて見る姿だった。彼女のうつくしさがもっとも際立つ表情をして彼女はそこに居た。赤い唇が薄く開いて「鼎さん」と僕の名前を呼んでも、今度は彼女の首を絞めたいとは思わなかった。けれども彼女の唇はそれで閉ざされてしまうのではなくて、次の言葉が出て来るのを待つように薄く開いたままでいた。
 「鼎さんは、どうして本当に私にしたいことをしてくれないの」
 彼女の声は凪いでいた。自分の言うことにすら関心がないかのように、滑らかでいて打ち棄てられた声色が、僕のことを言っていた。
 目の前が真っ赤になった。彼女の胸を蹴り、彼女の腹の上に馬乗りになって、僕は拳を振り上げていた。彼女の赤い頬を、赤い唇を目がけて拳を振り下ろした。何度も、何度も何度も何度も何度も、僕の拳が熱を持つまで、彼女の顔が腫れてもとの形がどうだったのか分からなくなるまで、僕は彼女を殴った。恐れているのだと名付けていた自分のこころが名付けたところをはみ出して渦を巻いていた。渦はごうごうと激しさをまして、彼女を一度殴る毎にぴしりぴしりと、僕のこころの垣根にひびを入れていった。胸の肉を切り開いて心臓をかきむしりたくなるような、どうしようもないものが僕の拳を動かしていた。彼女はいつの間にか静かになっていた。掴んでいた制服の襟を離すと、重たい音がして彼女の頭が床の上で小さく跳ねた。青黒く腫れてぶくぶくと醜くなった彼女の白い首と腕を見てそれでも彼女はうつくしいままだと安堵する自分も居たが、それ以上に、諦めでもあり怒りでもあり嘆きでもある、名前をつけることの出来るありとあらゆるよくない感情の根っこにある、底なし沼のようなこころが僕を満たしていた。彼女の腹を踏みつけながら僕は立ち上がって部屋を飛び出した。
 かつての通学路を足早に通り抜けて、向かう先は決まっていた。校門は閉まっていたが人気のないところだから乗り越えることは容易かった。グラウンドを横切って体育館の方へ向かうと、かつてよりもずっと草が生い茂って、もう何年も使われていないかのような有様だった。実際に使われていないのだという噂は聞いていた、わざわざ小学校まで体育館を使いに行っていたということ。いじめを苦にした女子生徒が飛び降り自殺をした、そういう風に事実は歪めて伝えられていて、教育的配慮とやらが彼女の死んだ場所からかつての僕と同じ年頃の子供らを遠ざけていた。彼女は彼女になされていた暴力を苦になんてしていなかったはずだ、そうでなければ、あんなに惜しげもなく自分の肌の上に咲いた花をさらしていただろうか。彼女は自分のうつくしさをどこまでも知っている、かしこいいきものだったのだから。
 排水溝を伝って屋根の上に登った。赤茶色をした屋根の上に立つのは存外に難しかった。彼女はどうやってここに登ったのだろうか。僕と同じように外を伝って? いや、中に入ってもっと楽に登ってきたのかもしれない。屋根の縁に立って見下ろすと、下に生い茂る緑は僕を待ち受けているようにすら見えた。
 彼女は誰のことを思い出しながらこの景色を見ただろう。それが僕でないことだけは確かだった、彼女は生きている間ずっと、僕のことを知るはずもなかった。そうでないようにあるチャンスは幾らでもあったのに、そういう風に仕向けたのは僕だった。それで良かった、それで満足であったし、そうあらねばならないと思っていた、箍が外れればすぐに壊れてしまうのだと分かっていたから、ここまで保ったならば充分じゃないか。笑ったつもりが声にはならずに乾いた息の音だけが口から漏れた。
 彼女がいつの間にかそこに立って居た。
 うつくしい彼女は僕の与えた疵など全てなかったことにしてうつくしいままでそこに立って居る。
 ああ、彼女はうつくしい。いつだっていつまでだって、彼女はうつくしい。
 その事実に改めて胸を打たれながら、でももう、渦を巻くこころに名前をつけることは出来そうもなかった。視界の端は真っ赤に染まったままだ。
 赤い唇が薄く開く。
 「鼎さん」と天使が戯れるような声が僕の名前を呼んだ。
 彼女が僕をじっと見つめているのを感じ取りながら、僕は屋根の端を蹴った。体を支えるものが何もなくなった本能的な恐怖よりも、彼女に見つめられていることの方をより恐れ、脅かされながら、僕は目を閉じて、耳を塞いで居た。



2016.01.10


参考動画