アイ・ラブ・ユーが聞こえない


 彼女の唇が動く。たった三音節を口にするために。しかし残念僕の耳に、彼女の喉を震わせ発せられた声は聞こえてこない。聞こえてこないから返事も出来ない。いや、それは言い訳にすぎないが。
 ただ、僕に返事をする気がないことは彼女にはっきりと伝わったようだ。彼女は不満げに眉を下げて唇を尖らすと、机の上へ重ねた腕へ額をつけて机へ突っ伏した。僕は思わず苦笑を漏らして、彼女の頭へ手を乗せる。
「ごめんよ、しずく」
 撫でるわけでもたたくわけでもなく、手を頭の上に乗せたまま、じっとする。彼女の髪は今日も美しい黒色で、傷んだ様子など全くなく、机の上に散らばった一束一束も、艶めいて蛍光灯の光を反射している。他にはとんと興味なさげな彼女なのに、髪にだけは気を遣っていて、それがこうして実を結んでいるのだから素晴らしい。そしてやはり、彼女は、しずくは綺麗だった。
 目を細めてしずくの髪を見ていると、いきなり、彼女が跳ね起きる。黒髪が一瞬宙へ広がり、すぐにもとの流れへ落ち着いた。眉のすぐ上の長さで切りそろえられた前髪の下、アーモンド型の大きな瞳が非難がましく僕を見つめる。
「都合の良いお耳ですこと」
 そう言われると僕は何も言い返せず、ただただ苦笑をするばかりだ。都合の良い。本当にそうだった。わざとやっているととらえた方がよっぽど納得がいくような症状だ。しかしながら今まで本当に全く存在しないような事例かと問われれば、いや、それはそうでもないというほどだし、日常生活へ支障があるのかと問われればそれも否である。つまり真剣に追及するに値するほどのものではないから、放置され続け今に至る。
 しずく以外に、僕のその症状で困る人など居ないのだ。
 彼女は不満そうな表情のまま机へ両肘をつくと、花をかたどるように広げた手のひらの上へ顎を乗せた。自然、僕の方へ顔が近づく。長い睫毛がぱたぱたと数度瞬いた。
「原点回帰で日本語にしたのに」
「今まで色々試したんだっけ、アメリカドイツフランススペインイタリア……」
「全部ダメだったけど。ラテン語すらダメって、どういうことなの?」
 彼女はむう、と頬をふくらす。それが可笑しくって小さく笑いをこぼせば、大きな目がじろりと僕を睨んだ。――慌てて咳払いし、大真面目な表情を作って、彼女の目を見つめ返す。
「……きっと、そうすることは人間の本能だから」
 僕には使えない言葉を避けるととたんにぼやけるフレーズの意味を、彼女はしっかり把握したようだった。彼女の眉間に皺が寄る、寄らせているのは僕なのに、きれいな顔が勿体ないなあと思ってしまった。
「だからね、それについての言葉も脳が勝手に拒否するのさ、本能で解を出してね」
「……くだらない御伽噺は止めましょう。私はそれでも、あなたに―――と聞かせたいわ」
 ほうらまた、使えない言葉が混じる。そこだけノイズのかかったきいきいうるさい音を返す僕の脳味噌は、本当にどうなっているんだろう。考えても考えても答えの出ない仕様のないことであるが、彼女とこういうやりとりをした後は、やはり考えてしまうことだった。
 原因が分かれば直せるだろうか。直せたら聞こえるだろうか。聞こえたら、僕は返事をするだろうか。尽きない自問に考えもせず全てノーを返す。願望だ、弱い僕の願望。
 僕にはそういう言葉を聞かせたいくせに、君はそういう言葉を聞きたくないんだ、しずく。だから僕は返事をしたくない、返事をして君が去ることが怖いから。そんな臆病な僕には、この耳と脳味噌はとても、とても都合が良い。返事をしない理由になるから
 だからもうしばらくこのままでいたいなあと、大きな目を見つめ返しながらそう考える。考えていることがばれたらきっと烈火のごとく叱られるんだろうと思うと、何だか楽しくなった。
 そして僕がふふっと小さく笑うのと同時、窓の向こうでから、お昼十二時を告げる鐘の音が聞こえてきた。



2013.12.31