ピアス


 片手に、道具を入れたビニール袋。もう片手は、ポケットに入れて中のものを確かめる。数少ない「俺だけのもの」、慧からもらったアパートの合い鍵だ。
 「家」からのんびり歩いて二十分ほどのそのアパートまでは、住宅街の中を突っ切らないといけなくて、ろくな日陰もない。おかげで、アパートの前に辿り着く頃には、シャツもズボンも、首に掛けていたタオルもびしょ濡れになっていた。道にせり出した庇の陰に入って、ようやく人心地つく。
 陰の中を数歩歩いて、目的の部屋の扉の前に立つ。合い鍵から手を離して、扉を強めにノックする。短く三回、長く三回、もう一度短く三回。しばらく待てど、中からはなんの反応もない。もう一度、一安心。
 日陰でも鈍く輝く鍵を鍵穴に差し込んで、回す。がちゃりと、錠の回る音がした。直ぐ、鍵を抜いてポケットに放り込み、ノブを回して手前に引いた。この間開いた扉とはまるっきり逆に、軽いドア。流れ出す空気のタチも反対で、熱く淀んでいた。
 玄関に入り、ドアを閉めると部屋は暗い。カーテンが開いていないようだった。部屋の中は熱く蒸されているから、いくらか前までは開いていたんだろう。慧が出かけているのは、運がいい。
  靴を脱いで、台所の向かいのふすまを引く。がらんとして、隅に畳んだ布団が置いてあるだけのこの部屋に、カーテンはない。おかげで廊下と玄関よりさらに蒸し暑い。ふすまを閉めれば、息苦しさの増した気がした。
  部屋の真ん中あたりにあぐらをかいて座る。ふう、と息を吐くと、いくらか肩の力が抜ける。やはり気を張っていたようだ。もし、家族の誰かに会ってしまったら、袋の中身と慧の家に来る理由をきかれただろう。それらを言うと慧や先生が怒るような気がしたのだ。
 ビニール袋をひっくり返して、中身を床に広げる。こっそり買った千枚通しと、百円ライター。「家」にあった傷薬と脱脂綿と消しゴムと安全ピン。都に聞いた方法で必要なのはこれぐらいだった。
 まず、耳たぶを消毒する。消しゴムにも消毒液をぶっかけておく。プラスチックの容器に入った傷薬を脱脂綿につけて、それで右の耳たぶを拭く。注射の前の消毒みたいに、液が蒸発してひんやりした。同じ脱脂綿で、裏側にあてる消しゴムの両面も拭く。
 次に、千枚通しをライターであぶって殺菌する。画鋲とか安全ピンじゃダメなのかと聞いたら、刃物じゃないから千枚通しの方がマシじゃないかと言われた。適当かよ、と文句を言ったら、俺も開けたことないしと返された。そりゃそうだ。それでもやり方は知っているんだから、やっぱり都はすごい。
 千枚通しがさめるのを待つ間に、安全ピンの刺す方もライターであぶる。穴をふさがないように、つけておくためのもの、らしい。確かに、ただ開けただけじゃ穴もふさがるだろう、怪我だし。だから、屋上で会ったあの人もピアスをつけていたんだろうか。学校なのに、ばれたら絶対怒られるの、分かってるのに。
 都に屋上で会った人のことを聞いても、知らないと言われた。都が知らないなら、他の誰に聞いても分からないだろう。ぱさぱさに傷んではいるけど、きれいな金色だった。きっと地ではないんだろう。でも、何か理由があってその色にしたのだったら、訳を聞いてみたいと思う。俺は、慧や空や、うちのみんなと同じ黒い色の髪が良かったし、茶色い目が良かった。言ってみたって仕方がないけど。
 それに、ピアスを開けたのにも理由があるんだったら聞いてみたい。まさか俺みたいに、誰かに屋上に入るのを拒まれたから、なんて理由だったら、そりゃもう笑うしかないなあと、思う。笑って、友達になれたら面白いなあ。なんて、夢みたいだけど。
 頬を流れてきた汗を手の甲で拭って、千枚通しの先端を触ってみる。もう熱くはなかった。じゃあ、やろう。
 右手で消しゴムを耳たぶの裏に当てる。左手で千枚通しを持って、先端を耳たぶに当てる。消しゴムでしっかり固定できる位置に。何回か当て直して、位置を調節する。鏡を持ってくれば良かった。
 場所を決めたら、一気に。と、都に言われた。さすがに、ちょっと恐い。どれだけ痛いのか分からないから。それでも、やらなきゃ穴は開かないし。
 一度、目を閉じてゆっくり深呼吸する。目を開けて、覚悟を決めて、ひと思いに。左手に力を込めて、ぐっと千枚通しを押した。
 思ったより、痛みはない。そして、時間もかからずに、千枚通しの先がけしゴムに刺さる感触があった。
 すぐに千枚通しを抜く。抜くときの方が、痛みが強いってどういうことだろう。それに、だんだん痛みが強くなっている気がする。じくじくと、後から追ってくるような痛み。手の力が抜けて、千枚通しが床に転がる。
 それと同時に、がちゃがちゃと、ドアノブを動かす音が聞こえた。そういえば、俺は鍵を閉めただろうか。ドアの外にいるのが慧なら、気にしてもしょうがないけど、でも、入ってこられるのは、困る。まだ、最後の手順が終わってない。
 安全ピンを拾って、針の先をさっき開けた穴に通そうとする。けれど、耳たぶの見当違いな位置にちくちく当たるだけで、なかなか穴に通ってくれない。仕方がないから、穴の位置を固定するために耳たぶをつまむ。ぬるりとした感触があって、引っ張ろうとしたのに指が滑った。
 そっと、耳たぶをつまんでいた手を見れば、指先に赤いものがついていた。くらりと、めまいがした。
「啓介?」
 慧の声がして、足音がそれに続く。ひとり分の足音が近付いてきて、ふすまの開く音がする。慌てて、でも恐る恐る、そちらを振り向いた。スーパーの袋を右手に提げた慧が、目を丸くしてそこへ立っている。
「何やってるんだ」
「ピアス……開けてる」
 慧に伝えた自分の声が、思ったよりもみっともなく揺れた。自覚しているより、俺はずっと弱っているか、怖がっているか、したらしい。慧の顔を見たら一気に安心してしまって、力が抜けた、ということなんだろう。
 スーパーの袋が畳の上へ置かれる。慧が、俺の正面にしゃがみ込んで、右手を俺の、穴の空いた右耳へと伸ばす。指が、俺の耳たぶをつまんで、ぬるりとすべる赤い液体をものともせずに、軽く引っ張っている。
 そんなにもまじまじと見つめられると、緊張する。「家」で悪戯をしてばれた後、怒られるのを待っているときのようだ。
 ため息が聞こえると、俺の肩は勝手に、大きく跳ねた。
「こんなやり方じゃ、化膿するだろ、馬鹿」
 ばか、というのと一緒に、さっきまで俺の耳たぶを引っ張っていた慧の手が、俺の頭を叩いた。きっと、さっき血に触った指先が、俺の頭に触れた、別に、大丈夫だ。ただ、頭に赤い血がべとりとついているのは、おかしいんじゃないかと思う。
 慧は立ち上がって「買い物に出かけてくる」と言うと、ふすまの向こうへ出て行こうとするのに、俺の方を振り向いて「何もするなよ」なんて釘を刺す。俺は「はーい」と返事をしてから、慧がふすまをゆっくり閉めるのを見ていた。
 足音が、遠ざかる。
 玄関のドアが開いて、また閉まる音。それから、鍵の閉まる音。全部聞こえなくなって、肩から力が抜けた。ため息をつきながら、俺は布団に寝そべる。天井は低かった。暑さのせいだろうか、なんだか、天井の木目がぼやけて歪んで見える。
 右耳はじくじくと痛い。畳が血で汚れたらどうしよう、と、思った。



2013.08.23