溺れる海豚


 あの子を助けるために、医者になりたかった。
 嘘偽りなく、本当のこと。
 でも、あの子を助けるより前に、私が壊れてしまった。
 自覚があるだけましと、あの子は笑った。「普通、だった時間があったと思えるだけ、幸せだよ」と微笑んだ。道理だ。あの子は、物心ついた頃から、人と違い、人を恐れ、人に怯えて、死にたがりながら生きていた。そんなあの子に比べたら、私はまったく幸せだ。
 私は、弟に「普通」を教えてあげたかった。
 嘘偽りなく、心の底から、そう願っていた。

「くーちゃん、お仕事の話して?」
 空が、こうして私に仕事の話をせがむことは、よくある。大抵、私が遅番で帰りが深夜になった日、居間で私と茶を飲みながら、顔をきらめかせて空は尋ねてくる。
 どうにも、生者より死者に親しみを覚える質の我が弟は、私の仕事が気に入りらしい。
 死体を浚い、捌き、曝く。倦んだ肌の色にも、生気のない目にも、とうに慣れた。私の体には、屍臭が染みついているに違いない。自分で望んでそうなったのだから、いっそ誇らしい。
 しかし、私が空に話せることなどなく、黙って首を横に振り、お終いだ。これも、いつものこと。空は、残念と小さく呟いて、唇をとがらせながらお茶のおかわりを注いだ。
「僕も早く、死体になりたい」
 空になったらしい急須をお盆の上に戻しながら、肩を落とし、低い声で空が言う。言葉の上の意味とは真逆に、その目は爛々と、鈍く暗く輝いていた。
 死にたがり、ととりあえず呼ぼうか。空は自らが生きることを良しとせず、度々こうして自殺願望を口にする。
 生きたくない、というのではない。生きる資格がないと自分を卑下しているのでも、ない。単に、「人間が生きていることが気持ち悪い」というだけで。
 空は、他人だけでなく、自分が生きていることも気持ち悪いとこぼす。早く死にたいと、物騒にこいねがう。
 なんて、残酷な。
 私は手を伸ばし、空の頭を撫でてやった。
「その日が来たら、私がお前をあばいてやるよ」
 柔らかい髪の感触を楽しみながら、手を往復させていると、空がくすぐったそうに肩をすくめ、くしゃりと笑って、口を開いた。
「ありがと、くーちゃん。大好き」
 こんなに可愛い弟の死を、誰が望もう。
 だから私は、弟を助けたかった。弟を治したかった。
 死ぬことは恐ろしく、生きていくことが普通で、誰もが好きな人には長生きしてほしいもんだよ。と、教えてあげたかった。
 でも、何かを教えることも叶わないまま、あの子を普通にすることも自分が普通になることも出来ないまま、弟は死んだ。
 約束通り、弟の死体を剖検した私は、その日の帰り道の月があまりに眩しくて、少しだけ泣いた。

 今はもう、死ぬことがなんなのか分からなくて、「普通」がなんなのかも分からなくて、私は今日も死体を捌き続ける。
 嘘偽りなく、あの子を助けたかった自分は、今でもやはり嘘ではないけれど。



2012.7月頃