かなわないもの



「慧さん、初恋っていつでしたか?」
「んー……高校の頃、だな」
「ずいぶん、遅いですね。そんな気はしたんですけど」
「まあな。それまでは、んなこと感じられるほど余裕もなかった」
「その分、ちしゃさんと空が色々敏感だったんじゃないですか?」
「そうかもしれん。啓介に至っちゃ、今もあの頃とあんまりメンタリティ変わってないしな」
「『人類みな友達』っていうあれですか」
「『俺の友人はみな俺の嫁』の方」
「……よく今まで刺されてないですよね、ちしゃさん」
「大っぴらすぎて逆に本気にされてないだけだろう。『はぐー』やら『きすー』やら、もう十何年もやってるし」
「それに淡々と付き合っておられる慧さんもしずくさんもすごいですね」
「まったく、慣れだな」
「慣れ、ですか」
「後は、半年ほど行方知れずになった後、平気で自宅に帰ってくる弟に動じない平常心」
「色々と苦労が偲ばれます」

「更にお伺いしますけど、慧さん」
「何をだ?」
「初恋のお相手について」
「さっきから思ってたんだが、お前がこんなことを気にするとは珍しい」
「そういう日もありますよ」
「高校の、同級生。三年間同じクラス、出席番号が前後だった」
「それも、三年間?」
「『本城』の後の『眞内』だからな。クラスが同じじゃ変わりようもない」
「男の方ですか」
「出席番号が前後というところで、察せ」
「そういえば十も違うんですよね、年。普段忘れてるのに、こーいうときに思い出します」
「……啓介も男女混合名簿がどーのとか言ってた気がする」
「ははっ。時代の流れですね」

「で、初恋の行方はどうなったんですか?」
「特に、何もなかったよ」
「それは、何も言いもせず、という意味で?」
「『自覚した頃にはすでに相手が居なかった』。確か……首つり、だったかな」
「それは……おつらかったでしょうに」
「ああ、まあ、高校生だったから」
「その方は、どんな風でした?」
「空によく似てたよ。こっちの機微に敏感で、厭世の気があった。芥川みたいなことを口走った次の日に、もう居なくなった」
「ぼんやりした不安、でしたっけ」
「そう、そう……本も碌に読んでなかったくせにな」
「……笑えるほど、良い思い出ですか」
「良いか、悪いかで問われればな。好きな相手の最後の言葉を聞けたのが自分だけだと思えば、悪くはない」

「今も、同じ風におっしゃいますか?」
「どうだろうな。わからんが、でも、俺も年をとって、色々と、疲れたよ」
「……こんなに、力強くて、頼もしいのに」
「お前にそう見えてるだけだよ、亜子。今だって、俺はこんなにお前を頼ってる」
「確かに、重たいです。いろいろなものが」
「俺からだけじゃなかろうに、それを受け止めているお前が、好きだよ」
「それは、慧さんも同じくせに」
「お互い様だな」
「せめて、慧さんの最後の言葉だけは、僕のものにさせてください」
「…………良いよ。俺より、長生きしてくれるか」
「ええ。一分一秒でも長く生きて、最後の吐息の音まで記憶に焼き付けてやります」
「本当に、頼もしい」
「じゃあ、約束の指切りを」
「お前は本当にぶった切りそうで怖い」
「だったら、ここから離れないでくださいね、慧さん」


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「という会話を交わしてきた。週末、慧さんと」
 一通り語り終えた亜子は、机の上のアイスティーを手に取り、ストローを口にくわえた。
 その話を、息を詰めて聞いていた薄明と私は、もうこれ以上の続きがなさそうだと察して、ふうと息を吐いた。
「小指ぶった切る亜子か……正直見てみたい」
「あんまり浮気心出してると立花に怒られるよ、薄明」
 気にする場所がずれている薄明は無視して、私も自分のコーヒーに口をつける。なんだか、一気に喉が渇いた気がする。自分の小指をじっと見つめる薄明を、じっと見つめる亜子の目が、いつもより少し優しいのは、見ないふり。
「僕としては、慧さんが人並みに恋をした経験があったことに一番驚いた」
「人並みとは言わないと思うけど、亜子がそう思うんなら良いよそれで……」
「僕のことを好きだとおっしゃりはするけど、恋する何とかみたいな雰囲気ではないから、いつも」
「でも、その話する時もどうせいちゃついてたんでしょ」
「眠かったんで膝枕してもらってた後、後ろから抱きかかえられる感じで」
 こんな風に、と薄明に対して実践してみせる亜子に、苦笑せざるを得なかった。周りの客の好奇が、こちらをちらちらうかがっている。そんな、面白いものでもないはずなのに、すべては亜子が紛らわしい格好をしているからだ。学校前のカフェなのに、来づらくなったらどうしてくれよう。
 思案する私の前で、亜子は抱きついていた薄明から離れ、うんとのびをする。薄明はされたことには無頓着に、机の上のケーキに手を伸ばす。何とも変わらない日常風景に、私も結局なんの文句も思いつかず、大人しくコーヒーを飲むことにした。
「後、ジンクスは誰に対しても有効なんだということにも、感嘆を覚えた」
 そう言いつつ、前屈みでケーキをつつく薄明を見下ろす亜子の目は、やはりいつもより甘くて穏やかだった。
 ……どちらもそれに気づいていないのは、鈍感という言葉で片付けても良いのか。それとも、亜子に倣ってジンクスという言葉を当てはめてあげようか。
「なんにせよ。ままならない世の中だわねー」
「……いきなり、何がですか」
「うふふ、こっちの話」
 にこりとすれば、亜子は首をかしげつつも黙って、隣の薄明にケーキを強請り始める。そんな見慣れた光景を前に、私はぬるくなったコーヒーの微妙な味を、ちびちびと楽しんだ。



2012.08.09