曇天のノスタルジア


 灰色の空は嫌い。僕の周りのいろんな人を困らせる。
 慧ちゃんはお洗濯者が干せなくて困り顔、いつもより眉間にしわが増えて、怖いお顔。
 あっちゃんは、お星様が見られなくてふてくされて、おうちに引きこもり。
 あっちゃんのお友達の薄明さんは、あたまがいたいあたまがいたいって繰り返す。
 それから、ちいちゃん。ちいちゃんは、よっぽど灰色の空が嫌いらしくて、この季節が始まるととっとと日本を出てってしまう。慧ちゃんは「湿気が嫌いなだけだ」って言ってたけど、それだけじゃないと思う。だってちいちゃんは、曇り空を見上げて苦しそうな顔をしてた。

 あんまり辛そうで、このままじゃちいちゃんが消えてしまうと、僕は思った。苦しいことがないように、もう色々なことをやめちゃうんじゃないかって。
 僕は思わず、消えないで、ってちいちゃんにすがりついていた。
 ちいちゃんは、はっと驚いた顔をして、それから、苦笑いして、僕の頭をぽんぽんと撫でた。
「行かないよ、俺は」
 そう言って、ちいちゃんはもう一度、空を見上げた。やっぱり苦しそうな顔をしてて、でももう何も言えなかった僕は、ぎゅっとちいちゃんの服の裾を掴んでいた。

 その翌年の六月も半ば、ちいちゃんは初めて日本を出て行った。僕にはそのタイミングと、旅立つときのちいちゃんの笑顔が、曇天を厭うてのことだとしか思えなかった。
 出発はこっそり、真夜中すぎのことで、僕は偶然トイレに起きて出て行くところのちいちゃんと鉢合わせになった。
 一気に目を覚ました僕は、当然、ちいちゃんにすがりついて止めようとした――その頃のちいちゃんは、また、曇り空を見て辛そうな顔をしていたから。
 今度はちいちゃんは、僕をそっと引きはがした。しゃがんで、僕と視線を合わせてから、にこりと笑った。
「すぐに、帰ってくるよ。……空の向こうで、どこかが俺を呼んでるだけだから」
 曇天を見上げるときの表情と、正反対の朗らかな笑みだった。嘘をついてる雰囲気じゃなかった。だから僕は、おとなしくちいちゃんを見送った。
 その言葉通り、ちいちゃんはすぐ、一週間もしたら戻ってきた。そのときは永遠みたいに長く感じた一週間だけど、今と比べればずいぶん短かった。

 ちいちゃんはもう、どんな季節だって日本を飛び出していくようになった。
 けど、この季節、空を灰色が覆う梅雨の頃だけは、絶対に、日本にいることはない。あの頃から、そしてこれからもずっとそうなんだろう。
 ちいちゃんは、曇天の向こう側から聞こえる呼び声を、忌々しく思いながらも無視できないんだから。
「ノスタルジーだねえ……」
 つぶやいても、そういえば答えてくれる人がいなかった。慧ちゃんはコインランドリーへ、あっちゃんと薄明さんはダウン。僕はため息をついて、窓の外を見上げた。
 今年も、空が灰色に曇る季節。ちいちゃんはとっくに日本を飛び出して、現在、行方知れず。




2012.07.11