泣く魚


 あれは海に初めて行ったときのこと。

 ちぃちゃんが海の方に走っていくのを見て、僕はそれを追いかけようとした。
 寄せてくる波に足を突っ込んだところで、けいちゃんに抱き上げられてしまった。
 けれど、自分の足に当たって跳ね返ってきた海の水が口に入って、「とても不思議」な味がした。そのときの僕には、それを「塩辛い」と表現するだけの経験が、足らなかったのだろう。

「けいちゃん、このおみず、へんなあじがする」

 そう、訴えかけた僕に、けいちゃんは笑いながら言った。

「それは、魚の涙だから」

 海に行く、と先生が言ったときに、「お魚が泳いでいるところだよ」とちぃちゃんが説明したのを聞いていたのか。気の利いたことをいって、けいちゃんは僕を海から遠ざけた。
 ちぃちゃんがずいぶん遠くまで行ったことも、アキと理人がくーちゃんに慰められていることも、そのとき僕は気がつかなかった。けいちゃんに言われたことを繰り返しながら、聞こえてくる波の音に、耳を澄ませていた。


 僕はもう、けいちゃんの言葉が嘘だったことを知っている。
 魚には涙を流す必要がなくて、そもそも「涙腺」がないということを知っている。
 魚に「涙腺」がなくてヒトにあるなら、ヒトは涙を流すために進化したのかもしれないね。くーちゃんにそう言うと、「涙が必要なのは、ヒトだけじゃないわよ」とそっけなく返された。くーちゃんがそういうなら、きっと本当のことだろう。
 ううん、だれかに聞かなくたって、そんな考えは馬鹿げてるって知っていた。

 コンクリートの防波堤の上に立って、水平線を眺める。
 今日はよく晴れているのに、風が強くて波も荒い。ときどき、テトラポットで砕けた波のしぶきがこちらにまで飛んでくる。
 おろした鞄がぬれてしまわないか、少しだけ心配になった。これには、大切なものが入っている。
 とっとと、大切なものを取り出してしまおう。そう決めて、黒い鞄から白い包みを取り出した。白い不織布で作られた小さな袋。4辺を赤い糸で縫い付けてある。耳元で振ると、からからと乾いてかたい音がした。
 もう一度、水平線へ視線をやる、海は、広い。

 魚は涙を流さない。
 僕も涙を流さない。
 けれど、僕は魚ではなかった。いっそその方が幸せだったろうと思うのに。
 魚だったらば、涙を流すための器官もなく、誰かにさわるための手のひらもなく、一人で生きてけたろうに、僕は不必要なまでに、人間だ。

 右手に包みを。防波堤の上を少し下がって、斜めに踏み出した後に左足で踏み切る。白い包みは僕の手を離れて放物線を描き、テトラポッドを超えて、波の中に沈んでいった。
 すぐに見えなくなる。さようなら。
 先生。おかあさん。
 すぐにその場にしゃがんで、体を丸めた。
 あの日と同じ波の音が聞こえる。あの日と違って、ひたすら胸が痛かった。




2012.06.03