アネモネ


 屋上に続く扉を開ければ、期待したとおりの人物が寝転がっていた。この寒い中、カーディガンもブレザーも羽織らずに、シャツ一枚隔てただけで、冷たいコンクリートに寝転がっていた。
 近づいて、顔をのぞき込んでみれば、すやすやと寝息を立てて眠っている。よくもまあ、こんなにゆるみきった顔で眠れるものだ。人が心配して探し回っていたというのに。
「薄明、起きろ」
 呼びかけてもぴくりとも動かない。仕方がないからしゃがみこんで肩を揺らしながら、薄明、とまた呼びかけてみる。眼下の人間は少し身じろぎして、それからまた、動かなくなった。……まあ、死んでいるのではなく眠っているだけだということが確認出来て良かった、とするか。
 まったく起きてくる気配のない薄明の横に座って、持ってきていた自分のコートを薄明の上にかぶせる。起きてこない薄明の、頬に触れると、ひどく冷たかった。ずっと風にさらされていたためだろう。
「薄明」
 返事はない。ただ、自分の声が思ったより頼りなさげに響いて、驚いた。

 眠っている薄明を前にすると、どうしてか名前を呼びたくなる。起こしたいときもそうでないときも、何故だか薄明の名前が口をついて出る。そうして呼びかけても、返事が返ってくることなどないのに。
 どうしてだろう、と考えてみると、そんな気持ちに襲われるようになったのは、夏休みの後からだった。正確には、あの事故の後から。
 そういえば、あのとき、暗闇の中で薄明の声を聞いた気がする。亜子、と僕の名前を呼ぶ不安そうな声。薄明のそんな声を聞いたのが、僕は初めてで、それで、薄明に会わなければ、と考えたのだっけ。だから僕は戻ってこれたのだろうか。辛い冷たいこちら側へ。
 そして僕が呼びかけるのは、薄明ならあっという間にあちら側へ行ってしまいそうだからか。今だって、こんなに寒いのに屋外で眠ったりしていたら、死んでしまうかも知れないのに。そんなことあり得ないと、納得して落ち着いている自分も頭の隅にいるのに、薄明なら、という仮定は納得している自分を裏切ってわき起こってくるのだ。
 こちらとあちらは、一方通行の道でしかつながっていないのに、薄明はその標識が見えないみたいにひょいひょいと、その道を進んで行ってしまいそうだ。――そう考えると、僕が戻ってきたのは本当に奇跡みたいなことだったのか。なあ?薄明。
 僕にとってお前は、以外と大事なモノらしいよ。

 んーうー、と、薄明がうなり声を上げる。同時にごろりと寝返り、仰向けの姿勢になった。これは、そろそろ目を覚ますな。
 そーっと、急に目を開いたりさせないようにゆっくり、薄明の顔の上に自分の顔を近づける。そのまま数秒待っていると、うなり声と一緒にゆっくり、目が開いた。
 至近距離でばっちりと、目が合う。薄明は目を大きく見開かせた後、ぱちぱちと大げさな瞬きを繰り返して、また目を見開いた。
「……びっくりしたぞ、亜子」
「……それは良かった、おはよう、薄明」
「ああー……おはよう」
 気だるそうに薄明が言う。薄明の目がちゃんと覚めたようだったから、曲げていた腰を戻した。
 薄明は寝転がったまま背伸びをして、また、手足を床におろす。空に手をかざして、目を細めて、僕の方を見た。何かを考え込んでいるときの表情だ。その表情のまま僕を見つめること数瞬、薄明が口を開いた。
「お前ホントに、家出るの?」
 あまりに唐突な質問はしかし、ここ最近あまりに多く交わされている会話の一部だった。高校3年生の秋ともなれば、自分も周りも、先の進路をまじめに考える時期だ。僕も、さすがの薄明も、その例に漏れず、最近は割と、自分がこれから何をするかという、将来の話をしていた。今更薄明に対して隠すことなどない僕としては、それは非常に楽なことだったが、薄明は色々考えることがあるらしい。何度も同じ質問をするほどには、
「……薄明はさ、僕が家を出ることに賛成じゃなかったっけ?」
 別に、薄明が考え込むのは構わない。けれど、それが疑問だった。なんで、咎めるような口調でそれを、問うのか。その程度のことで、僕の決心は揺らいだりはしないから、何をどういわれようと、平気だけれど。でも、薄明がそんなことをするのが、とてもとても不思議だった。
 僕が言うと、薄明は顔をしかめて、体を起こすと、僕と向かい合う姿勢に座り直した。それから、小さく唸って、考え込むというより、不機嫌そうな、かつ泣き出しそうな顔で、膝を抱えた。
「お前が、お前の家にいるのは、お前に良くないから。だから、それは賛成」
「――うん、ありがとう」
「でも、お前が家を出たら、俺はお前に会えなくなる」
 それが、嫌なんだと。薄明が言っているのは分かった。
 ……なんて、我が侭な、話だろう。でも、薄明がそんなに我が侭なのは、嬉しい。そして、誰かに執着されているという事実が、嬉しい。これはきっと、とても単純な感情だ。
 手を伸ばして薄明の顔を上げさせる。いじけた子供みたいな表情の薄明に、微笑ましいと思った。
「そんなの、薄明が追いかけてくればいいのに」
 薄明の目をじっとのぞき込んで呟けば、薄明が静かに首を横に振る。何を言ってもきっと無駄なんだろうと思えたから、薄明の頭をそっと撫でた。少しぐらい、薄明が楽になればいいと思って。 
 あのときお前が僕を呼んだのが、どこか遠くへ行ってほしくなかったからだとして。いざ離れるとなったら、僕だってきっと同じことを思うのだ。帰ってきてと。こちらにおいで、と。

 だから僕は、あのときのお前と同じように、こちらへおいでと、言葉で態度で、お前を呼ぶよ。
 「薄明」
 薄明は、次の分岐点で僕を追いかけてきてくれるだろうか?



2010.10.02