鈍色の箱庭で


 フェンスに囲まれた灰色の長方形が、俺と亜子の箱庭だ。見上げる空は青かったり赤かったり白かったり、色々だけれど、今日は濃い灰色。今にも雨が降り出しそうな、というかさっきまで降っていた、不安定な空模様。俺も亜子もすっかり濡れ鼠で、このまま教室に入っていったら怒られるだろう。
「シャツがくっついて気持ち悪い」
「俺はスラックスの方が気持ち悪い」
 俺の答えを聞いて亜子は顔をしかめた。濡れて、肌にくっついたシャツは、少し丸みを帯びた亜子の身体の線を、はっきりと見せる。蒸し暑いからってベストを脱いでから来たから、胸のふくらみも腰のくびれも、はっきりと見えてしまっている。いくら頑張ったって、自分の持ってる身体のことは、ごまかせないんだよ。亜子もそれは分かっている。だから、不機嫌そうに空を睨むのだろう。
 うなじに冷たい水滴が落ちて、思わず肩が跳ねる。きっと髪から垂れたのだ。セットしてきた髪型は、雨に打たれてとうに崩れてしまった。髪を下ろしていると、必要以上に年を低く見られる。俺はそれがあまり気に入らなかった。
 雨、雨。俺も亜子も、雨に打たれたって何一つ得しない。じゃあ何で雨を避けなかったのかって、それでも雨に打たれたかったからだ。傘を差すんじゃなく、レインコートをかぶるんじゃなく、雨に打たれたかったからだ。誰だってそういう日があるはず。ただ、傘を差すもんだ、レインコートを着るもんだ、っていう常識の方が優先してしまうから、忘れているだけで。
 ここは俺と亜子の箱庭。常識なんてここにはない。そういう風に枷から自由になれる場所が、俺たちには必要だ。きっと、これからもずっと必要になる。場所を変え形を変え、変わらず二人で箱庭を作るだろう。一人じゃ意味がなかった。二人でようやく落ち着いた。
「雨、またすぐに降りそう」
「何でわかんの?」
「西の空が、すぐ暗い」
 亜子が指さす方を見る。それが西かどうか俺には分からないけれど、確かにそちら側の雲は、すこし向こうから暗い色になっていた。
「こういうときに、じっと、空を見ていると」
「うん」
「雨の降る場所の、終わりが見えるんだってさ」
「嘘みたいだ」
「ね。僕もそう思うよ」
「でも、嘘じゃないなら見てみてえなあ」
「じゃあ見えるまでここにいようか」
「うん」
 返事をすると、亜子はその場に仰向けに寝転がった。両腕をへそのあたりに重ねて、足を投げ出している。
 もう一度、空を見る。亜子が指さした方、暗い雲の見える方。雲の色の変わり目は、確かにはっきり見えた。あんなにはっきりしているなら、本当に雨の終わりとやらも見えるかもしれない。俺たちから見たら、雨の始まりになるのか。まあ、どっちでも良いや。髪が乾く前に、服が乾く前に、もう一度さんざん雨に打たれるのも、悪くはない。
「亜子ー」
「なに、薄明」
「俺、お前のこと結構好きだよ」
「そう。僕も同じだよ」
「でも、大嫌い」
「うん、僕も、薄明なんか大嫌い」
 亜子が笑う。俺も笑う。互いにしか聞こえないように、小さく笑う。箱庭の中には二人だけ、でも、隣で誰が耳をそばだてているか分からないから。
 好きと嫌いは反対じゃないとはよく言ったものだ。俺はそれを正しいと思う。好きの反対は無関心という言葉もあって、それもまた、正しいと思う。俺は亜子を好きで大嫌い。二つの感情は決して打ち消し合うベクトルじゃなくて、二つあることで互いに高め合うんだ。そうやって、どんどん亜子を好きになって、嫌いになっていく。亜子のことが欲しくなっていく。
 俺の望むものを分かっていて、居たい場所を分かっていて、したいことを分かっていて、隣にいてくれる亜子のことが好きで。俺より俺のことをよく分かって、なのに一線を踏み越えてこない亜子なんか、大嫌い。大嫌いだよ、でも好き。
 きっと亜子も同じなんだ。俺は、亜子より亜子のことをよく分かってる。証拠なんて一つも出せないけど、確信があった。だから、やろうと思えばすぐ、亜子を自分のものに出来ると思う。手を伸ばして亜子の頭を撫でるのと同じぐらい簡単に、出来ると思う。
 ああ、欲しいものはたくさんあるけど、本当に欲しいのは二つだけ。それを諦めることに決めたのは、俺自身。二つが互いに矛盾してるなら、どちらも諦めるしかなかったんだ。一つだけ手に入れたって、意味がないと思うから。それを仕方ないと納得出来るくらい、俺たちにだって出来るんだよ。出来れば、気付きたくなかったけど。
 暗い空の方から、風が吹く。濡れた身体には、どんな風だって冷たく感じる。特に、シャツが直接肌にくっついたところでは。こういうときに、理科で習う話は本当なんだなあ、と感心する。どんどん熱を奪われて、身体が冷えて、風邪をひいてしまうかもしれない。それも、きっと、俺だけひくんだ。こういうとき大抵、なぜだか亜子は平気なんだ。そうして、体調を悪くした俺に、呆れたような笑みを見せる。
 それが容易に想像できて、なんだか腹立たしい。とりあえず嫌がらせに、亜子が腹の上で重ねている腕を、身体の横に置きなおした。腹を冷やして、調子を悪くしてしまえ。しょうもないけど、なんとなく腹立たしさが紛れる。亜子のため息が聞こえた。つかんだ腕は、温かい。
「薄明はさあ、もっと、普段から身体に気を遣わなきゃ駄目なんだよ」
「身体に気を遣うってなんだ。俺の身体は俺のものじゃないか」
 好き勝手使って何が悪い。そう思っていると、うんと顔をしかめられる。
「そりゃ、そうだけど。親しき仲にも礼儀ありっていうか……」
 言葉尻を濁して、うんうんとうなる亜子。何か違うと、小さく呟いたのが聞こえた。俺としては、ことわざやなんかで戒められるようなことを言ったつもりはないのだが。
 うなり声がやんで、さっきより大きなため息が聞こえた。亜子の顔をのぞき込むと、何とも形容しがたい視線を向けられる。顔全体の表情から、何かにあきれかえっていることだけは分かったけど。
「とりあえずさ、医者になろうっていう人間の言うことじゃないよね」
「自分じゃメンテナンスできないから、他人にしてもらうんだろ?」
「確かに、医者の仕事としちゃあ正しいけどさ」
 掴んだままだった腕が向きを変える。地面に手をついて、上半身を起こした亜子は、険しい顔を俺に向けた。
「……まあ、他人には同じこと、すすめない方が良いと思うよ」
「そりゃ、口出すことじゃないから、しねえよ。お前に、ブラジャーつけろとかスカートはけとか言うようなもんだろ」
「薄明」
「おう」
「僕の手の届かないところでは死ぬなよ」
「了解」
 大丈夫だ。俺は、そんなに遠くにも、近くにも、行かないよ。笑いかけると、微笑みが返ってくる。こころが、温かくなるような。
「あ」
 亜子が、俺の後ろを見て呟く。俺が首をかしげると、見えた、と変わらぬトーンで口にした。
「雨の終わり」
 俺も、後ろを向く。
 目一杯空を見上げると、すぐそこに暗い雲。そしてその下に、白いカーテンのようなものが見えた。きっと細い雨粒が途方もない数集まると、雨があるのとないのとの境目が、ああやって白く見えるのだろう。まさしく、雨の終わりで、雨の始まりだった。何にでも、こんなにはっきり見える境があるのだろうか。あると良いのに。もしかしたら、俺が知らないだけで、あるのかもしれない。
「見たいものは見たな」
「そうだね」
「中、入るか?」
「もう一回濡れたいなあ」
「何だ、それ」
 亜子の言葉に思わず苦笑する。でも、俺も亜子に異論はなかった。もう一度雨に打たれたい、今日はそういう気分なんだ。
 二人で同じ空を見上げる。雨の終わりが、近づいてくる。やっと見えるところから、触れられそうな近いところまで。そして、俺たちの真上へ。
 雨の始まりは、見ているとき予想したのよりずっと突然に、俺たちを襲った。初めの一粒が額にあたったかと思うと、すぐに次の、いや、次のなんて区別がつかないほどたくさんの雨粒が、ほとんど同時に俺の顔をたたいた。慌てて見上げるのをやめる。同じことを隣の亜子もしたのが、気配で分かった。
 冷たい雨が、頭を、肩を、投げ出した足を打つ。冷たい雨が濡らしていく。ただ一カ所、亜子の腕を握った掌をのぞいて。そこだけは、他の場所が冷たく濡れていっても、温かいままだった。
 俺たちは、近すぎても遠すぎても、きっとしっくり来ないだろう。こうして、手を伸ばして触れるぐらいの距離が、ちょうど良いんだ。あるときそれに気付いた俺たちは、不幸なのかもしれない。ちょうど良い場所が、望んだ場所と違ったことは、不幸なのかもしれない。でも、その「不幸かもしれない」ことをどうでも良いと思える程度には、俺たちは今、幸せだ。そして願わくは、亜子が今と同じに、ずっと幸せであることを。
「雨がやんだら」
「熱いコーヒー?それか、ココア?」
「俺は紅茶が良い」
「分かった。雨が、やんだらね」
 亜子の腕がするりと俺の手から逃げて。代わりに、柔い手のひらが重ねられた。
 フェンスに囲まれた灰色の長方形が、俺たち二人の箱庭。灰色の空の下、雨に打たれて、手をつないで、どうあがいても、二人きり。



2011.06.01