いのちの抜け殻、十四つ


 今年も例年よりも平均気温が高くなる、これは地球温暖化の影響ではないのか。そんな大ざっぱな推論を、近ごろテレビもラジオも、天気予報と一緒にまくし立てているものだから、いい加減、飽きがくる。というか、毎年毎年、例年よりも平均気温が高ければ、その例年の平均気温とやら自体の値があがっていくのが道理なんじゃないか。
 携帯ラジオの音声に耳を傾け、そんなことを考えながら、カーブミラーの設置されている角を左へ曲がった。ベルを鳴らしながら、小学生だろうか、子どもの運転する自転車が列に連なって近づいてくる。思い思いに帽子を被った子供らの、黒く日に焼けた肌の色だけが共通している。自分もああだったんだろうか、考え始めるまでもなく、そんなときはありえなかった。俺は自転車なんて持っていなかったし、昼日中外へでるのに帽子を被った試しがなかった。肌が見えるような半袖の服を着ていることもなかった。今も俺は、自転車を持っていないし、昼日中外へ出るのに帽子を被らないし、肌が見えるような半袖の服は着ていない。紺のスラックスに白い長袖のカッターシャツ、それへサンダルを履いている。足元だけが、辛うじて夏だった。
 耳を塞いでいたイヤホンをはずす。途端に、じーじーと鳴く蝉の声と、自転車に乗る子どもたちの声とがあわさった、ラジオの音とはまた違った喧しさがやってくる。それらは、この日差しとともに、夏というものを自分へ特に強く感じさせるものだった。これで、そこらの塀の上から向日葵が顔をのぞかせたりしていたら完璧だったのだろうけど、生憎どの家の庭からも、黄色い花弁は色を見せてはいない。もしかしたらもっと低く咲いているのかもしれないが、見えないのじゃあ存在しないのと同じだった。
 緩やかな下り坂を、子どもたちが交わす声を聞きながら歩いていく。ざりざりと、砂利をサンダルが踏む音が愉快だった。こんな時間なのにどこの家かが水打ちをしたらしい。門の前の地面が濡れている場所がある。その場所から、見えない蒸気が立ちのぼっているであろうか、小さな蜃気楼が膝のあたりの高さへ揺れている。
 日は随分と高いところにあって、自分のかげは進行方向の地面へ極めて短く落ちている。もっと早いか遅い時間に行けば、かげの下を通りながら来ることも出来たのだろうが、昨晩はそうも考えていたのだが、まあうまくはいかないものだった。
 大体なんだって、そういう風に出来ている。

 春海、という表札の掲げられた、普通より幾分か厳めしい木造の門をくぐって、まっすぐのところへ見える玄関の戸を叩かず、そのまま右を向いて庭へ向かえば、日の当たる縁側へ、啓介と空が並んでいるのが見えた。庇は長く屋根へついているのに、時間のせいだろうか、二人の背中は全く日にさらされている。
 啓介は彩度の低い黄色のタンクトップを着て、横へ白のラインが三本入った、黒いジャージの半ズボンを履いている。縦にばかり伸びる身長のせいかいつまでもひょろりと細い啓介の四肢は、真っ赤に日に焼けている。きっと毎晩の風呂の度に、悲鳴をぐっとこらえているのだろう。元来が白すぎる啓介の肌は、いくら日に当たっても黒くはならないのだ。
 春は、どう見てもサイズの合わない半袖のTシャツを着ていて、広い襟ぐりは今にも狭い肩からずり落ちてしまいそうだった。幅の広い、灰色と青色のボーダーが入ったそのTシャツは、啓介のものだったはずだ。きっと、空がひどくねだって、啓介が全部を承知で貸してやったのだろう。膝近くまであるTシャツの丈の下へ、半ズボンの裾が覗いている。そこからのびる細い脚も、啓介の服を引っ張る細い腕も、黒く、日に焼けている。口元が思わず緩んだ。誰を、引っ張りまわしたんだろう。
 しばらく眺めていても、二人は縁側から動き出しそうもない。溜め息の後、頬を流れてきた汗をシャツの袖で拭って、二人の方へ踏み出した。塀で囲まれた庭は、片隅に那智の手入れしている家庭菜園があり、物干し竿がだいぶ幅をとっている以外は、疎らに雑草の生えた土があるばかりだった。その状態を保つために、ひと夏に何度、草刈りに駆り出されたことだろう。それこそ日に焼けて、干からびそうに思ったものだった。あのときは、白い半袖のカッターシャツを着て、ズボンを膝上までまくっていた。暑かったのだ。
 啓介と空は二人で、縁側へ置いた何かを囲んでいるようだった。邪魔しないように足音をひそめながら近付いていく。二人は気が付かない。振り向こうともせずに目の前のものに夢中で、俺は二人の囲んでいるものを上から覗き込むことになる。廊下に新聞紙が一枚広げられて、その上へ茶色い塊がぽつ、ぽつと並べられている。茶色い塊の大きさはどれも大体、同じぐらいだった。かさかさに乾いた薄い殻。いや、脱け殻。割れた背中を上へ向けて、頼りなさげに六本の脚で新聞紙の上へ立っている。少し風が吹けば倒れてしまうだろうと容易に想像が出来る。蝉の、脱け殻だ。
 それを呟けば、空がまず勢い良く、こちらを振り向く。右肩からTシャツがずり落ちた。首の下に、日に焼けているのと焼けていないのと、肌の色に境目が見える。伸ばされた両手をとって、空の体を抱え上げる。幾分か幼いやり方だが、俺にも空にもこのやり方はぴったりだ。
 そのまま空抱えてて、とこちらへ声をかけるのに、啓介は俺の方を向かず、新聞紙の上の蝉の脱け殻に向き合ったままだった。左手へ縫い針を持っていて、その針には白い糸が通っている。啓介は、右手の人差し指をぺろりと舐めると、針に通した白い糸の長く伸びた端を指へ一周、巻きつけた。糸を捩りながら輪から指を引き抜いて、出来た結び目を爪で端まで引っ張り寄せる。慣れた様子の手付きだ。
 抱え上げた空が、後ろを振り返りたそうにしているので、少し腕の力を緩めてやる。俺の肩に小さな手をついて、背中を逸らした空は、啓介の手元を興奮した眼差しで見つめているようだった。
 せみ、ねっくれす。はしゃいだ声が舌足らずにそう笑うのを、啓介は、もう出来るからなと全く慣れた風にさらりと流して、針を右手へ持ち替える。左手に一つ、蝉の脱け殻をとると、その腹側、直ぐにでも潰れてしまいそうな六本脚の真ん中へ、針の先端を通した。背中の割れた部分から針を抜いて、腹側へ長く糸を余らせてから、つぎの脱け殻も手に取る。少しも壊してしまわないようにと、指先の力を最新の注意でコントロールしているようだった。その手が脱け殻を持ちながら、ひとつめと同じように次に、次にと脱け殻を針と糸とで繋いでいく。いつ、むう、なな、ここのつ、とおを数えて、更に四つ。啓介は針を、新聞紙の上へ並べた蝉の脱け殻の一つへ刺しておくと、針から抜いた糸の端と端とを、ひとまとめにして結んだ。それを二回繰り返す。まだ輪にならず余っている白い糸の両端を引っ張って、めいっぱい張らせると、口の中へ糸を入れて、糸を思い切り引っ張った。犬歯に引っかけていたのだろう。それで白い糸は切れてしまう。輪にならず余った白い糸の方は新聞紙の上へひょいと放って、啓介はつくった輪の方を持ち上げて、空を手招いた。空の小さな両手が俺の体を突っ張ってきたので、素直に腕をはなしてやれば、空は地面へ飛び降りて、啓介のそばに駆け寄り、行儀良く立っている。はいどうぞ、と言いながら、啓介が今作ったばかりの輪を、空の頭に通してやる。空はひどくうれしそうにありがとう、と叫ぶと、俺を振り向いた。
 Tシャツのずり落ちた肩よりもっと中心寄り、首から、奇妙な飾りがさがっている。茶色をした薄く、すぐに潰れてしまいそうな脱け殻を、腹から糸を通して、十四つ繋げたものだ。なかなか作ろうとすら思わないそんな飾りを、空は首から提げて、満足げだった。けいちゃん、せみ。そう、胸を張って俺へ主張する声が、喜色に満ちている。空の蝉って、それなんだよなあ。啓介がぼやいて、空の首飾りと、新聞紙の上の脱け殻を交互に見つめる。縁側へ腰掛けると、新聞紙の上の空いたスペースを埋めるように、かさかさと乾いた音をさせながら、蝉の抜け殻を動かした。その乾いた音は、この夏の湿り気混じりの陽気に似合わない。また、頬を汗が伝ってきていたので、それを袖で拭う。またすぐに、汗が吹き出てくる。夏だった、きりがない。
 啓介の向こう、縁側の奥の和室の方から、人影がひとつあらわれる。木の盆を胸の前に構えて、赤い果肉の果物が、盆の上に乗っている。スイカ切ったわよ、そう言いながら出てきた人は、俺と目が合うと、優しい眼差しで小さく笑った。もう一切れ、持ってこなくっちゃ、そう、うれしそうに言われてしまえば、遠慮の言葉は口には出せない。溜息をつく。空が裸足を拭かずに縁側へ飛び乗ると、那智の前でまた、胸を張ってみせている。せんせいとおそろいね、と言うのへ、那智は瞬きを繰り返すと、合点が言ったようにああと笑って、自分の首からさがっている、木のビーズのネックレスを少し持ち上げた。そうね、おそろいね。そう言って笑うだけの那智は豪胆だと思ってしまう。蝉の脱け殻を連ねたのと木のビーズを連ねたのでは、だいぶ、意味も見た目も違うのに、すべて空の意を汲んで、那智は笑っているようだった。
 せみの、ねっくれすよ。空がそう言った言葉尻へ、落ち葉を踏みつぶしたような音が被さった。あ、と啓介の驚いた声がすぐにかぶさる。啓介は、自分の両手を胸の前で広げると、手のひら同士を打ち合わして、何かをはたき落としているようだった。その手の下、新聞紙の上へ、薄い茶色の脱け殻がひとつ、つぶれて広がっている。啓介の手のひらへ粉々になってくっついた脱け殻の残骸が、はたき落とされてそこへ降りかかっているようだった。せみ、しんじゃった。空が抑揚のない声でつぶやく。
 辺りの蝉の声が、急にうるさくなったような気がする。

 ここは、小学校の校庭の桜の木のそばだ。桜の木の影は長く伸びているのに、他のものの影が一つもない。木の向こうには、緑色の金網が立っている。自分の他に人影ひとつない閑散とした校庭を囲っている。
 直ぐに夢であると分かった。自分が、半袖のシャツを着ているからだった。
 桜の木はこれ一本しか見当たらないが、蝉の声はこの夏どこで聞いたのよりも喧しく、どちらから蝉の声が聞こえてくるのかも分からないで、耳を塞いでしまえば楽にもなれるのだろうがそうする気すら起こらず、今鳴いているすべての蝉が集まっているらしい桜の木の、長く伸びた影の中をじっと見下ろした。
 小さく線の細いからだが、背中を丸めて、俯せにうずくまっている。元は白かっただろうに、薄汚れに汚れを重ねて茶色くなった長袖の服を着ている。彼はもう動かないのだろうと思った。いや、もう動かないのだと確信があった。
 その、動かない背中の真ん中へ、背骨に沿って亀裂が入る。その亀裂は徐々に左右へ広がって、中の暗闇から、肩をすぼめた人影が現れた。彼はゆっくりと立ち上がる。黒く日に焼けた肌色をして、肩から先に布地がない白色のタンクトップを着て、膝小僧の見える半ズボンを履いていた。彼はゆっくり顔を上げていく。やはり日に焼けた黒い面は、俺と目が合うと、白い歯を見せて笑った。
 彼はそうして、自分の脱け殻の上から飛び退くと、裸足のまま、すぐそばの桜の木へ駆け寄った。低い枝に手を伸ばしてそれをつかむと、両脚で幹を挟んで、すいすいと桜の木をのぼっていく。あっという間に桜の緑に紛れて、彼の姿は見えなくなる。蝉の鳴き声にまじって、桜の緑の合間から、子どもの笑い声が聞こえた。どこから聞こえてくるのかわからなくなったその笑い声は、やがて、蝉の声の中へと消えていった。
 俺はやかましくて目眩がするのをこらえながら、桜の木の下へ残った脱け殻に近付いた。それは薄くて、からからに乾いている。少し吹いた風にもかさかさと音を立てて、簡単につぶれてしまいそうだ。靴のつま先で肩のあたりを軽く蹴れば、くしゃりという音と一緒にあまりに簡単にへこんで、穴が空く。無性に泣きたくなった。俺がいる、と思った。

 目を覚ましたら本当に涙を流していたので、可笑しくなって笑おうとしたら、渇いた喉から咳が出た。
 タオルケットは足元へ追いやられている。布団の上へは遮光カーテンの隙間から朝日が細い線状に差し込んでいる。机の上には課題をやろうと思って開いた六法がそのまま置いてある。コップの水は半分、残っている。
 窓を開けずに眠った部屋は息苦しく感じられるほどに湿気がこもっていてかつ気温も高く、寝間着を濡らす汗がその息苦しさへ貢献をしているようにも思われたが、眠るということにおいてはこれぐらいで丁度良いのだと思われるので、今日も息が止まらずに目覚めたことへそっと感謝をしながら、暑い息を肺の底へ送りこむ。腹が空いていて、熱い空気はじっとりと、空いた腹の底へ澱を作っていくようだった。
 汗で濡れた寝間着をまくり上げる。自分の腹と胸を覗き込めば、薄暗い部屋の中でもわかるほどはっきりと、白く日に焼けていない肌の上に、青や赤の痣と鬱血痕とが、彩りを添えている。
 俺はどうやら昨日までと変わらず生きているらしい。まだ、蝉の声が聞こえる。閉ざした窓の外で二週間の命を鳴く、蝉の声が聞こえている。



2014.07.17