ビター・スイート・ビター


 恋が甘いものだったら良いのになあ、と私は常々思っている。私の作るお菓子みたいにあまぁいものだったら良いのに、って。甘いお菓子を食べたら、みんな、幸せになれるもの。
 だから私は、恋が甘いものだったら良いのに、と夢想する。特に、好きな人が目の前で泣いている、今日みたいな日には。

「もう、泣かないでよ。コーヒー冷めちゃうし、ほら、アイス溶け始めてるし」
 私はそう言いながら、相手の頭を軽く叩き、顔をあげるのを促す。そのまま、うつむいた相手の頭に手を乗せていると、ゆっくり、手を押し退けられた。
 嫌々、といった感じで顔をあげる彼女の、目の回りが真っ赤に腫れている。きっと、店に入ってからずうっと泣きながら話していたせいだ。肌が弱い、っていつも言っているのに。私は苦笑しながら、準備していたハンカチを差し出す。
「ありがと」
 泣いて泣いて、泣き通した後の鼻声で彼女は言って、私の差し出したハンカチを手に取った。それで目の回りをぬぐい、鼻の下を押さえる。それから、彼女は目を閉じて、深呼吸をする。一度、二度、三度、華奢な肩と薄い胸が、上下する。
 細く長く息を吐いて、彼女は目を開けた。真っ赤に充血しているのはさっきまでと同じだけど、幾分か感情が落ち着いているように見えた。
 けれど、私を見た彼女の顔は、眉間にしわが寄った仏頂面で、表情を作れるまでは落ち着いていないみたいだ。
 なんとも不機嫌そうな表情のまま、彼女は口を開いた。
「ごめん。ハンカチ、洗って返すから」
 弱りきった声色には、色々思うところはあるけれど。私はその色々を全部胸の奥に押し込んで、最高の笑顔をつくって、彼女に笑いかけた。
「良いよう、気にしなくて。それより、早くケーキ食べたげて」
 熱いものは熱いうちに、冷たいものは冷たいうちに。食べ物を美味しく食べるときの大原則だと、私は思ってる。彼女の手からさっとハンカチを奪って、フォークを持たせてやれば、かなわないな、と小さなつぶやきが聞こえた。
 やや小ぶりのフォークを、扇形のガトーショコラの先端に突き立てて、一口分をフォークに取り、口に運ぶ。もごもごと口を動かした後、その顔がほんの少し、幸せそうに緩んだのを見ると、私もうれしくなった。
 もう二口ほど同じように食べ進めた後、ブラックコーヒーをすすり、彼女は一度、フォークを置く。
「さすが、紗耶おすすめの店。私でもすいすい食べれるチョコケーキがあるとは」
「でしょ?バニラアイス乗っけて食べると、またちょっと風味が変わって、おいしいよ」
「ふうん……じゃあ次はそうするか」
 そう言って、彼女はまたフォークを手に取る。私の言った通り、ケーキを切った後、バニラアイスをそこに乗っけて、口に運んでいく。泣き顔と全然違う、楽しそうな嬉しそうな表情に、私の頬も自然と緩んだ。
 ほら、こんな風に。甘いものは、人を幸せな気分にしてくれる。それを知っているから、私は彼女の相談を聞くのに、このカフェを選んだ。あんまり甘すぎるのが苦手な彼女が好きそうなケーキを出してくれる、このお店を。
 もくろみ通り、彼女の気分は、ケーキを食べて少し浮上したようだった。これでもだめだったらどうしようかと思ったから、本当によかった。誰だって、好きな人には、泣いてほしくなんかないでしょう。
 企業の技術研究所なんていう、男社会に身を置く彼女は、普段は一等男前な姉御肌。なのに、恋人のことになると、途端に泣き虫な、か弱い面を見せてくれる。そして、恋のことにも、研究のことにも、人一倍ロマンチストだってことも、私はようく知っている。
 そんな彼女が、こんな風に泣きじゃくって弱音を吐く相手が、私ともう一人しか居ないことも、承知している。そして、恋のことについては、私にしか泣きつかないことも。全部が私に向かないことを、少し忌々しく思う。でもそれはもう仕方のないことだし、こうして一部分だけでも彼女をひとりじめできるなら、それで良かった。
 今日だって彼女は私の前で泣いて、私のたくらみで笑顔になってくれたんだから。
 ……私が意識を他にやっているうちに、ケーキは後一口になっていた。彼女はその一口を食べ、少し残っていたコーヒーを飲んだ。
 コーヒーカップをソーサーに置いてから、ほう、と息を吐く。彼女の満足げなため息と幸せそうな表情に、自分の胸の中が満たされるような気がした。
「ご馳走さま、でした」
「おそまつさまでした」
 って、私が言うのもおかしいけど。
 彼女は組んだ手を上に向け、うんとのびをして、すぐに脱力。ふかふかの椅子に、体を預ける。私も、背もたれに思いきり背中を預けた。
 少し窓の外の様子をうかがう。3月も半ばなのにまだ昼間も肌寒くて、行き交う人はみんなコートやマフラーの、防寒仕様の格好だ。なのに、空は春霞みたく、掠れた青色に晴れ渡っている。まったく、きっと、春はまだ遠い。
「紗耶」
 名前を呼ばれて、彼女の方に視線をやる。困ったように笑っている申し訳ないとでもいいたげな顔で、彼女は口を開く。
「いっつも、ごめんね。私の愚痴ばっかり聞いてもらってさ……でも、こんなこと話せる相手、紗耶しか居ないから」
 かすかに自分を卑下する調子で紡がれた言葉は、私を喜ばせるに足るものだった。さやしかいない、なんてそんな殺し文句。きっと、無意識の計算が含まれているその言葉。私が彼女から離れていかないようにって。馬鹿だなあ、と思う。そんな真似しなくても、私はあなたが好きなんだから、頼ってもらえるのがうれしいんだから、この場所を手放したり、絶対しないのに。
 私は微笑んで、彼女に答える。
「私でよければ、いつでも呼んで。かのこに呼ばれたら、私、どこにだって行くよ」
 彼女は、よっぽど驚いたのか、目をまんまるくした。それから、二、三度瞬きをしたかと思うと、口許を押さえて笑い出す。そうして、切れ切れに言うことには、
「そーいうのは、紗耶の彼氏に言ってあげなきゃ、だよ」
 って。
 彼女はときどき、私に残酷なことを言う。それは大体、恋に関する話のときで、私の思いを彼女が知らないから、出てくる言葉だ。丁度、今みたいに。
 でも私は自分の思いを彼女に伝えようとは思っていなくて、むしろ、知られたくないぐらいだから。首をかしげ、彼女の言葉を笑顔で肯定するしかなかった。
 そうして私が返事をすると、彼女は真面目な顔になって、椅子から身を乗り出す。私の目をまっすぐ見つめながら、真剣な表情で、彼女は口を開く。
「紗耶からもなんか相談あったら、言ってね。いつでも、聞くから」
 きっと、その相談というのは色恋についてのことで。私はその相談を、彼女にだけは絶対できない。でも、彼女がそれを知るよしもなく、彼女にそれを気取られたくもなく、なら私にとれる行動なんて、一つしかなかった。
 出来る限りで最高の笑みを浮かべて、うなずく。
「――ありがとう」
 本当に、彼女はときどき、残酷なことを私に言う。その言葉は、心から私を心配してくれているから出るものだと知っている。だから私は、そんな言葉を聞くたびに、うれしくて悲しくて苦しい気持ちになる。
 目を伏せて、視界に入ったティーカップを手に取る。頼んだのをすっかり忘れていたロイヤルミルクティーはすっかり冷めてしまっていて、おいしくもなんともなかった。

 会計は、店を教えてくれたお礼だと言い張るから、彼女に甘えることにした。先に店の外に出て、彼女を待つ。
 足元のプランターに植わっているチューリップは、まだ咲いていないけれど、つぼみが大分膨らんでいる。遠いとばかり思っていた春も、着実に近づいてきているらしい。そりゃあ、お店のラインナップも苺のもの中心になってくるわけだ。
 タルトに、ショートケーキに、ミルフィーユ。ちょっと変わり種なら、シュークリーム。みんなを幸せにしてくれる、あまあいお菓子。
 チリン、チリンとベルの音がして、緑色のドアが開く。ドアをくぐって外に出てきた彼女は、店に入ったときより、ずいぶんさっぱりした顔をしていた。
「……紗耶、ありがと」
 側に来た彼女がそう言うから、私は首をかしげて答える。
「何か特別なこと、したかしら?」
 そうすると、彼女は困ったように、少しはにかみ、笑う。その笑顔は、私が彼女の笑顔の中でも一等好きなものだった。こんな顔を見られるなら、本当にいつだって、私は彼女のところに駆けつけよう。そう、思えるほどに。
「また、おいしいケーキ食べに来よう。かのこでも食べられそうなとこ、探しとくから」
「お願いします、ぜひ付き合わせてください」
 付き合う、というところに一瞬ひどく反応しそうになって、ぐっとこらえる。小さく笑って、ごまかした。
 いつもなら、こんなやりとりのあと、一緒に近くの駅まで歩いたりするのだけど、今日はなし。彼女は、彼女の好きな人に、これから会いに行くらしいから。ここで、お別れ。
 横を向いて、じゃあ、と手を挙げかけたところで、彼女が、あ、と声を挙げる。その声で、動きを止めて、もう一度彼女の方をちゃんと向く。彼女は、肩から提げた鞄の中をがさごそ探っているところだった。
 あった、と少しうれしそうな声をあげて、彼女が取り出したのは、ラッピングされた小箱。白とベージュのストライプの包み紙に、焦げ茶のリボンをかけてある。
「バレンタインのお返し、ってことで」
 はい、と差し出されたその小箱を、私は受け取る。何が入っているかも分からないのに、馬鹿みたいに丁寧に、その小箱を両手で包む。
「……私のなんて、一杯配った友チョコなのに。こんなお返し、ありがとう」
「ううん、紗耶のチョコレート、とってもおいしかった。ああいう、ちょっと苦めのチョコ、私大好きなんだ」
 知ってる。だって、はじめからあなただけに渡そうと思って、作ったチョコだもの。あなたにおいしいって言ってもらいたくて、笑ってもらいたくて、つくったチョコレートだもの。その目論見は、ちゃんと成功したみたいで、私はとてもうれしい。
「ありがとう」
 小箱を大切に抱えて、今度こそ私は、それじゃあ、と彼女に背を向ける。好きな男のところに向かう彼女の背中を見送りたくはない、というせめてものささやかな抵抗だ。
 まだ少し冷たい風に肩をすくめながら、人並みの中を縫うように歩く。来るときに一人で歩いた道と同じなのに、そのときよりも温かく感じたのは、きっと手の中の小箱のせいだ。春が、この手の中にあるみたいに。
 大通りに面したバス停の、行列の一番後ろに並ぶ。家に帰るまで、なんて待ちきれなくて、私は小箱の包装をとき始める。ほどいたリボンは鞄の持ち手にくくりつけて、包装紙は綺麗にたたんで鞄の中へ。現れた小箱はボール紙で出来ているようで、紙の表面が細かに波打っている。ゆっくりその箱を空けると、中には焦げ茶色のキャラメルがぎっしり詰まっていた。
 一粒手にとって、口の中に放り込む。残りは蓋をして、鞄の中へ。
 舌の上のキャラメルは、甘さとほろ苦さを残して、すぐに溶けてなくなっていく。もう一つ、食べたくなるような、物足りなさを感じさせながら。
 不意に、こみ上げてきた涙を手でぬぐって、私は顔をあげる。風が吹いたと思ったら、すぐに、家へのバスがやってきた。

 やっぱり、恋が甘いものだったら良いのになあ、と私は思う。そうすれば、恋をしている人はみんな幸せになれるから。
 でも、現実はそんなにおいしくはなくて。きっと恋は、甘くてほろ苦いくて、少し物足りない。そしてすぐになくなってしまって、たくさんの人を泣かせるものだ。
 だけど私は、私の好きな人には、恋の甘いところだけを知っていてほしいと、願ってしまう。それが、絶対に実らない私の恋が、せめてと願った結末だった。



2012.03.31