るつぼに落ちる


 金属片を計量して、アルミナで出来たるつぼに入れる。スズが30g、銅が70g、そこに少しの炭を加えて、材料の準備は終わり。慣れない手付きで作業する俺を見守っていた実験のペアは、俺がそこまでの作業を無事終えたことで、ほう、と息を吐いた。安心したのか、あからさまだ。
 眉を寄せて後ろを振り向けば、首をぶんぶんと横に振りながら、弁解する。
「いや、馬鹿にしたんじゃなくてさ!ほんとに、安心したんだって!ほら……先週は世紬、融剤と基質の量取り違えて、大変なことになったし」
 思い出したくもないことを話に出されて、自分の表情が更に歪むのが分かる。確かに、先週は大変だった。実験の結果自体もだし、その後の教員からの大目玉と、追加レポートが。ただでさえ「教師」というのが苦手なのに、更に嫌いになりそうだ。嫌いになった原因とは違って、今回は明確に俺が悪い、という違いはあるけれど。
 黙ったままの俺に何を思ったのか、ペアの相手は慌てて「目ぇ離してた俺も悪いよなー」などといって、乾いた声で笑う。その様子が少し気の毒で、俺は苦笑しながら作業の続きを促すことにした。このペア相手は、この実験の授業でだいぶん損をしていると思う。第一に、俺みたいなのとペアを組まされてしまったこと。第二に、非常に面倒見が良いこと。つまり、足手まといになりそうな俺を放っておけず、なんやかんやと手助けしたりしてしまうのだ。今日も、俺が事前に言っていなかったら、材料の計測を始まる前に、薬さじを取り上げられていただろう。
 ペア相手は、るつぼを同じ素材のケースに入れて、蓋を閉め、台に乗せ、その下にガスバーナーを置いた。台に備え付けのマッチを取り出して点火し、手際よく数カ所のねじを回していって、バーナーに点火する。俺は火を扱わせてもらえない……絶対やけどをするだろう、という理由で。否定できない自分が悲しいが、仕方がない。中学でも高校でも、興味のない理科の実験は、良いサボりの時間だった。
 そんな俺に、工業大学の聴講生になることをすすめてきたのは、実質上のバンドのまとめ役である春だった。単身渡英し帰国した俺に「大学は行った方が良い」「せめて一年だけでも」というところまでは分かったが、「どうせなら今まで興味なかったようなところに行って、見聞を広げろ」までいってしまうと、俺にはちょっと理解し難かった。いや、言いたいことは分かるけど……「音楽に絞って視野を狭める必要はない」と。ただ、手段がちょっと強引すぎやしないか、と思う。まあ、結局、俺はそのアドバイスに従ったのだけど。
 座学はともかく実験操作なんかまったくやったことがなかった俺の心配通り、当初は実験の授業でめちゃくちゃばかりして、教師とティーチングアシスタントにこっぴどく叱られた。後、心配された。こういうことに興味があってきた人間ばかりの中にぽつんとこんなのがまじっていたら、まあそうなるだろう。でも、2ヶ月も経てば俺も周りもそれなりに慣れて、何とか実験の体をなすようにはなった。
 ペア相手が、変わった形をしたはさみを手にとって、ケースの中のるつぼを挟み、揺すっている。全体に熱を均等に回すための実験操作らしい。……俺より年下だろうに、慣れた手付きだ。
 じっとその手元を見つめていると、ペア相手が小さく笑い声を漏らすのが聞こえた。思わず顔をあげると、相手は慌てた様子もなく、口を開く。
「これでしばらく火にかけて、溶けたら水の中の型に入れて冷やして完成」
「……これで金属が溶けるとか、嘘みたい」
「そのための道具だからなあ。工業用とかだと、もっとでかいのもある。お前がすっぽり入るような大きさのとかも」
「それに入ったら俺も溶けるのか」
「ただの例えだよ」
 苦笑するペア相手。俺も冗談のつもりで言っているのだけど、そうは聞こえなかったのか。どうやら今までの行いの及ぼした影響は、俺の思っているより根深いらしい。
 ちょっと落ち込んでため息をついていると、ペア相手が、やってみるか、とはさみの先をこちらに向けてきた。やらせるべきでないと思われていたはずだけど、良いのだろうか。ちょっと戸惑いながらも、それを受け取って、さっきまで相手がやっていたように、揺すってみる。加熱しているそれを上からのぞくと、るつぼのてっぺんに空いた穴から、どろどろに溶けて赤くなった金属が見えた。

 実験が無事終わり先週のレポートを提出した後、CDショップに寄って予約していた新譜を受け取って家に帰ると、受け取った新譜のジャケットの写真に写っている男が、ソファでふんぞり返って、昨日買ったばかりの小説を読んでいた。俺も読みかけなんだけど、しおり外してないだろうな……。
 と、少し的外れなことを考えながら、ソファの方に近づき、そいつの横に鞄を放り投げる。CDは別の袋に入れて手に持っているから問題ない。顔をあげた男――獅子尾は、俺の姿を認めると、にやりと笑って、鞄を少し横によけ、隣のスペースををたたいた。座れということだろうか。どうせ拒否しても無理に座らせられるだろう……そう考えて、ため息をつきつつ移動して、その場所に腰掛けた。
「前にも言わなかったか?勝手に入るなと」
「俺の家だ、問題ない」
「だから、要らないと言って出て行ったのはお前だろう。もう、俺のものだ」
 獅子尾が不満そうな表情をするのを横目でとらえつつ、俺は買ってきたCDを袋から取り出す。ケースを覆っているビニールを剥いだ。ジャケットの写真には、やはり、俺の横に座っている男が写っている。琥珀色の髪と、それより少し濃い色の目。整った顔立ちの、野性的な雰囲気を持つ美丈夫。写真ではごてごてしたゴシックファッションに身を包んでいるが、今はシャツにボウタイ、ジーンズのラフな格好で、細身だがけっしてひ弱ではない体つきがよく分かる。格好いい男は、何を着ても何をしても格好いいんだと、よく分かる実例だ。じっとこちらを窺う獅子尾の気配を感じながら、ケースを開ける。
 鞄を探ってポータブルCDプレイヤーを取り出し、CDをセットする。今じゃだいぶ廃れてるという話も聞くけど、出先ですぐにCDを買ってしまう俺には必須だ。再生ボタンを押す前に、とイヤホンを耳にはめようとすると、左手を横の獅子尾に掴まれた。ため息をついて、獅子尾の方を向く。
「……何」
「『本物』が目の前にいるんだ、CDなんか聞いてないで相手しろ」
「嫌だね。俺が聞きたいのは『獅子尾巡』の声じゃなくて、『LEON』の曲だから」
「歌ってやろうか?お前のためだけに」
 熱烈な、口説き文句だ。獅子尾に少しでも好意を持つ人間なら一発で落ちるだろう。でも生憎、俺はとうにその段階は過ぎている。それに、だ。獅子尾の歌は獅子尾の歌であって、LEONの音楽ではない。俺は左手を掴む獅子尾の手を振り払い、黙ってイヤホンを耳にはめようとする。舌打ちが聞こえたが、それに続く動きはなかったので、俺は安心して、再生ボタンを押した。

 もう何回目のリピートになるだろう。急に寒さを感じて顔をあげると、部屋の中が暗い。窓の外を見ると、もう空が真っ暗になっていた。曇りなのか、新月なのか、月明かりもない、暗い夜だ。
 自分の横を見ると、獅子尾の姿ももうなく、ソファを触ってみてもぬくもりはない。だいぶ前に出て行ったのだろうか。ソファを立つ気配にも、ドアを開け閉めする音にも、全く気付かなかったけど。
 一旦集中力が途切れると、色々なことに気がつく。とりあえず寒い、後、お腹がすいた。一人になれたことだし、適当に夕飯を作って食べて、ゆっくりお風呂につかろう。
 プレイヤーの電源を切ってイヤホンを外し、腕を真上に上げて思い切り伸びをする。ふう、と息を吐きながら腕をおろすと、体の力が抜けて、ソファから体がずり落ちた。その姿勢のまま、手探りでプレイヤーを机の上に置く。もう一度伸びをして、さあ立ち上がろう、とした俺に、何かが、覆い被さってきた。腹の上をまたいで、両耳の横に手をつき、首に顔を埋めている。柑橘系のコロンの匂いが、する。……訂正、何かじゃない。この匂いは、獅子尾だ。
「俺、もう怒るよ、獅子尾」
「じゃあ殴るなりなんなり、抵抗しろ。退かせばいいだろうが」
「それは嫌。獅子尾に傷がつくことをするのは、嫌だ」
 本心からそう言えば、獅子尾の肩が震える。くつくつと小さな笑い声が聞こえた。下手に刺激すれば何をするか分からない、そう思うと俺は動くことなど出来ず、獅子尾の下で体をかたくする。何せ前例があるのだ。思い出したくもない、前例が。
 しかしその態度が気に障ったのか、獅子尾が突然、俺の体を抱え上げる。そのままソファに放り出され、獅子尾は俺の腹のあたりに馬乗りになる。それから、片手でソファの背もたれを倒した。わざわざ寝転がるスペースを広げて何をするつもりか……なんて、考えたくもない。
 獅子尾はまた、俺の頭の横に腕をついて、首のあたりに顔を埋めた。
「あのときもそうだった。そう言って……離れていく」
「うん。俺はお前のこと好きだから。でも、お前の望むようには出来ないから」
「あのときから、それは変わらないか」
「……何度も言うけど、先に出てったのは、お前だろ」
 二人で一緒に住んでいたこの部屋から。あの頃の仲間たちと一緒に音楽を作る場所だったこの部屋から。先に出て行ったのは獅子尾の方だ。「要らない」と言い捨てていったのは、獅子尾の方だ。要らないのならと、この場所は俺が自分のものにした。それに関して責められる謂われは俺にないはず。
「ああ、そうだ。でもな、先に俺から離れたのは、弓弦、お前だ」
 これも、真実。確かに、俺が当時のバンドを抜けると言ったのは、獅子尾が部屋を出るより先のこと。むしろ、それが原因だったのだろうと、今なら想像が出来る。実際、獅子尾が出て行かなかったなら、俺が出て行っていただろう。
「――好きだ」
 低い声が耳をくすぐる。短い言葉に隠れた言葉がいくつも聞こえてくるようで、俺は、ぎゅっと目を瞑った。耳を塞いでしまいたい。そんな俺の心の内なんか知らないだろう、獅子尾は、まだ言葉を続ける。
「どこかに、行くな」
 どこにも、と言えないのが獅子尾の優しさ、いや甘さか、それとも弱さか。自分が知っている分には、俺がどこにいても良いのだと。でも、あのときのように、俺が自分の知らないどこかに行くのは駄目なのだと。そういうことだろう。甘い、甘いよ、獅子尾。そんなお前だから、俺はお前から離れたんだ。
 折角、あれだけの間離れて。帰国してお前と会って、元に戻ったと安心していたのに、あっという間に、逆戻り。いつもの傲岸不遜の影もなく、俺なんかに縋り付いて。
 俺と居たら獅子尾は獅子尾でなくなる。俺では獅子尾を傷つけてしまう。分かっていながら戻ってきたのは、獅子尾の俺への恋情が消え失せているだろうという甘い読みと、遠くからで良いから獅子尾を見ていたかった俺の意志の弱さのため。
 自業自得。その四文字が頭を過ぎった。
 獅子尾が俺の手を取り、頭の横に押さえつける。指と指を絡めて、まるで恋人同士が手をつないでいるようだ。その動きに気をとられていると、いつの間にか端正な顔が間近にあった。その目が柄にもなく潤んでいることに、胸が痛んだ。
「ごめんな、獅子尾」
 もう、それ以外に何も言えなかった。なるべくいつもと同じように笑いながら言った俺に、獅子尾は口づけてくる。熱くて、かさついている唇が押し当てられ、ちゃんと手入れしろよなんて的外れなことを冷静に考える自分と、粘膜同士で感じる獅子尾の熱にあてられる自分が、頭の中でせめぎ合っている。でも、舌を絡められれば、冷静な自分はすぐに陥落した。こちらからも舌を絡め返し、つないだ手をぎゅっと握る。一度離れ低く息を吐き、また唇を寄せてくる獅子尾の、少しだけ漏れた低い声に、本当は欲情しているなんて、言ったら喜ぶかな。喜ぶだろうな。
 このまま後先考えずに、この体勢をひっくり返して、獅子尾を押し倒して、唇だけじゃない、あちこちにたっぷりキスして、舐めまわして、シャツを脱がして首筋に噛みついて、痕をつけたい。低い声で喘がせて、艶っぽい声をかすれさせてしまいたい。自分より一回り大きい体を組み敷く想像に身悶えたのは、一度や二度じゃない。現実に出来たらどれだけ良いことだろう。
 苦しくなったのか、また唇を離した獅子尾を、腕を伸ばして抱き寄せる。背中に腕を回して、力強く抱きしめる。こうしてしまえば、獅子尾は下手に暴れられない。獅子尾のもっともいやがることは―俺と同じく―俺が傷つくことだからだ。特に、俺の手に傷がつくことを厭う。俺が、獅子尾の声を気遣うのと同じように。
「ごめん……」
 もう一度謝罪の言葉を口にすれば、獅子尾の顔と触れている自分の肩が濡れるのが分かった。
 後先考えずに、お前を抱いてしまえたら良いのに。でも、そうしてしまえば、お前の音楽が変わってしまう。俺の愛したお前の音が、変わってしまう。不自由な枷だな。自分が選んだことだけど、後悔がないとは言えない。でも、今日久しぶりの獅子尾の歌を聴いて、安心したんだ。変わらない声を、音楽を聴いて。自分の決めたことは間違いじゃなかったと、思えた。
 だからこれから先も、獅子尾の望むようにはなれないだろう。それなのに、どこまでが許されるラインなのかを探る俺は矛盾していて、卑怯だと思う。
 抱き寄せた体は温かいのに震えていて、俺は赤子をあやすようにその背をたたいた。

 獅子尾が、俺の上に乗っかっている。自分より重たいはずの獅子尾が膝に乗っているのに、不思議と苦しさは感じなかった。
 見上げる獅子尾の表情は何故か逆光でよく見えなかったけど、顔を寄せてきたから、首に腕を回して口づけた。空いている方の腕は腰に回し、獅子尾の体を自分の方に引き寄せる。
 唇も舌も、首と腰に回した腕もどこもかしもが熱くて、溶けてしまいそうだと思った。いや、いっそ溶けてしまえばいい。邪魔な皮膚は、隔てる境界は全て、溶けてしまえばいい。
 一度唇を離すと、獅子尾は低い声でハアハアと肩で息をする。その様子に微笑んで、頭を撫でると俺に寄りかかってきた。俺はそのまま後ろの壁にもたれかかり、獅子尾の頭をなで続けた。緩やかにカーブする背後の壁と、ふと見上げた小さく丸い天井の穴は、るつぼを中から見上げたときのようだ。
 実験のペア相手の言葉が頭の中で響く。人が入れるサイズのるつぼもあると。……ならいっそ、このまま溶けてしまおうか。
 何も、考えず、このまま二人で。

 ――そこまで考えて目を覚ました俺は、がしがしと寝癖のついた自分の髪をかいた。夢で見るなんて、末期症状だ。いや、それは知ってたけど……うん。
 寝転がっているのは背もたれが倒れたままのソファで、何故か毛布が掛けられている。若干汗ばんでいるのはこのせいか。いくら肌寒くてももう春なんだよ、毛布は暑いって。
 もう部屋の中には居ないであろう獅子尾に心の中で文句を言って、立ち上がる。体に特に異常はない。眠るまでの完全な記憶はないけど、一線は越えていないはずだ。俺の体の調子より部屋の様子より何より、獅子尾がこの場にいないことが何よりの証拠。
 伸びをして首を回して息を吐いて、部屋の中を歩き回る。目につくところに、獅子尾の持っているはずの合い鍵は見あたらない。また持って帰ったのか。取り上げられるように起きていられなかった俺が悪いけど。
「懲りないな、俺も、お前も」
 苦しくても、痛くても、離れがたい。欲を燻らせながらただ抱き合って眠るしか出来ないなんて、まるで生殺しだ。それなのに、俺たちは互いに触れる。胸の奥で渦巻く熱に、逆上せてしまっている俺たちは。
 ごめんな、獅子尾。俺はお前が好きだけど、お前の歌う音楽を愛してるんだ。なあ、お前もそうだろう?だから、お互い様。一緒に、苦しもうか。
 部屋を一周して、ソファに戻ってくる。腰掛けた目の前の机の上のCDプレイヤーは、蓋が開いているけど、中のCDはなくなっていた。ついでに、横のCDケースもなくなっている。折角買ったのに……思わず舌打ちをしてから、CDプレイヤーの下の封筒に気がついた。
 引っ張り出して中身を出すと、ライブのチケットだった。そういえば、CDに告知が封入されていた気がする。1階、ステージの真ん前のスペース。特等席だ。……本題はこれだったのか。それでCD聞き始めたら不機嫌になったのか。可愛いな。とりあえず、防音室のコルクボードに貼っておこう。見つけた春あたりがうるさくなりそうな気もするけど、まあ良い。見せびらかしてやれ。
 夢見も、後味も悪かったけど、今の気分は良い。大好きな音を聞きに行ける楽しみが出来たんだから、当然だ。
 さあ、今日も一日頑張ろう。そのためにまずはと、チケット片手に、防音室の扉を開けた。




2011.09.20