(永久の安息を)


 春が部屋から出てこない。もう5日になる。
 完全防音のその部屋は、俺たちが楽器を触るために使っている部屋で、内側から鍵が閉まるようになっている。だから、部屋に入って鍵を閉められてしまえば、こちらに打つ手はない。
 音葉は、ほとんど一日中、心配そうな表情で扉の前に座り込んでいる。
 拓と直は、はじめの3日は毎日顔を出していたけれど、拓が具合を悪くしたらしく、もうここには来ていない。春の様子にあてられたのかもしれない、と思う。拓はそういうのに敏感だから。
 俺はというと、特に変わらぬいつもと同じ生活をしている。どうせ何をしたって、扉の向こうの音は、俺には聞こえない。なら、何をしてもしなくても同じだろうと、そう思う。
 でもそろそろ、待ち続けるのには、飽きたかもしれない。
 自分の分のついでに作ったココアを、音葉の横の床に置く。それに気付いて、音葉が俺を見上げた。いつも綺麗に結い上げている髪は何もせずぼさぼさのままで、両目の下には濃いクマができている。知ってるよ、ろくに眠れてないんだって。
 心配してるだけの音葉が、こうなのに。この部屋の中の春は、いったい何をしているのやら。

「……ねえ、音葉」
 飽きたんじゃなくて、待つだけなのは、そろそろ我慢ならないんだ。
「春の実家の場所、知ってる?」

 春が部屋にこもったのは、春の弟の葬式から帰ってきてからだ。自殺、だったという。だから俺たちは、葬式に顔を出さなかったのだけど。
 話せるだけの事情を俺たちに話して、必要な荷物を小さい鞄一つにまとめて、春は実家に向かった。
 一週間経って「葬儀が済んだ」と連絡があった。帰ってきた春は、不安の中待っていた俺たちに目もくれず、楽器のある部屋にこもった。鍵を閉めて、誰も入ってこれないようにして。出てこなくなった。
 無理に出てこい、とは思わない。時には何かから逃げることも、必要だろうから。ただ、周りにあんまり心配をかけるな、とは思う。春は昔、俺にそう言いながら怒ったんだから。

 訪問した春の実家は、思ったよりすんなり、俺をあげてくれた。そんなに落ち着いているタイミングでもないだろうから、もう少し躊躇されるかと、思ったんだけど。
 立派な門をくぐると、ガラス戸の前に、背の高い、日本人離れした容貌の、でもやけに馴染んだ感じの和服を着ている男が立っているのが見えた。まさか、と思いながら近づくと、「春のすぐ下の弟です」と名乗られる。……弟?兄じゃなくて。
 ちょっとびっくりして黙っていると、目の前の男は、腕を組みながら苦笑した。
「やー、まあ……にわかには信じがたい、とは思うんですけど。春からうちの事情は聞いてるんですよね?」
「おおざっぱには、一応」
 こんな弟が居ることまでは聞いてなかったが。
「まあ、そういうことです。俺と春は血がつながってないし、それは他の兄弟たちとも同じで、ついでに俺は、俺自身にどこの国の血が流れているのかも、よく知らないんで」
 和服、似合わないでしょう?なんて笑いながら、男はガラス戸を開いて家の中に入った。うながされて、俺はその後に続く。靴をそろえて脱いで、板張りの廊下を男に続いて進む。本当に古民家、という感じで、廊下から見えるところに洋風の扉は一枚もない。
 春が幼少期に過ごした養護施設が、ここだったのだと聞いていた。春の言う「先生」が、自分の家を使って営んでいた、小さな施設だったと。その「先生」が亡くなった後、春の兄がこの家を継いで、施設で一緒に過ごした兄弟たちの帰る「家」にしたのだとも、聞いていた。
 縁側から見える庭には雑草は生えて居らずこざっぱりしていて、隅の方に、葉を落とした庭木が、ぽつんと一本生えている。好ましいはずのこの清潔さが、何故だか、必要以上に物寂しい。俺が、この家の事情を聞いて来たから、そう思うのだろうか。
 先を行く男が立ち止まって、障子を開く。促されて中に入ると、真新しい畳の匂いがした。部屋の中央にはちゃぶ台があって、奥に仏壇があるのが見えた。仏壇の横に、白い布のかけられた台が置いてある。写真立てと額に入った絵だけが、飾られているようだ。
「ちょっと待っててください。兄貴、呼んでくるんで」
 そう言って、男は部屋を出て行った。
 立ったままきょろきょろしているのもどうかと思って、入り口に近い方の座布団に腰を落ち着ける。仏壇は仏壇だから、良いとして。その横の台は、どういうことなのか。
 額に入っているのは、鳥の絵だ。全身を、夏の空のように鮮やかな青色で染め上げた、尾の長い鳥。がらんどうの瞳でこちらを見る鳥は、とても動き出しそうにはないのに、剥製のような、妙な生々しさがあった。
 その手前の写真立てに入っているのは、……少年が一人で写っている写真だった。学生のよく着るカッターシャツを着て、人なつっこい笑顔を浮かべている。真っ黒な髪と対照的な、病的に真っ白な肌が、なぜだかとても自然だった。
 背後で、ふすまの開く音がする。振り向くと、濃い灰色の着物と同色の羽織を身につけた男が立っていた。きっと、この人が春の兄なのだろう。立ち上がると、相手の方がわずかに目線が高い。切れ長の目。相対すると、背筋を伸ばして喋らないといけない気になる、そんな雰囲気の人だ。
 悔やみの言葉を口にしようとすると、口を開くか開かないかのタイミングで「そういうのは、良い」と低い声が聞こえた。思わず男の顔を見ると、男は少しも表情を動かさずに、目で部屋の奥を示した。部屋の奥、さっきまで自分の見ていた、絵と写真立ての方を。
「手でも合わせてやってくれ。あれを悼んでくれるなら」
 淡々と告げられた言葉に、俺は少し戸惑いながら、男の視線が向けられた方に向かった。台の前に正座をして、手を合わせる。面識はなかったけど、春の大事な弟だから。安らかに眠れるようにと祈りながら、目を瞑った。畳の匂いに混じって、わずかに、線香の匂いがした。きっと、隣の仏壇からだろう。
 目を開けて立ち上がり、後ろを向くと、男が俺の座っていた方の座布団の上に座っていた。……良いのだろうか、と考えながら、空いている方の座布団の上に、正座をする。
「世紬弓弦と申します。小泉さんには、いつもお世話になっています。突然の訪問なのに快く通してくださって、ありがとうございます」
 そう言ってから頭を下げると、小さい笑い声が聞こえた。3秒待ってから顔を上げると、男が微笑ましいものを見る視線を、こちらに向けていた。
「悪い、気を悪くしたなら、謝ろう。春の同業者だと聞いていたから、どんな奇天烈が出てくるかと思っていたんでな」
「……積極的な否定は出来ないですね」
 思い当たる節がありすぎて、俺が思わず顔を逸らすと、また、小さく吹き出す笑い声が聞こえた。
「ああ、申し遅れた。本城慧という。春の……というか、この家の長兄だ。こちらこそ、いつも春が世話になっている。春は……どうですか」
 どう、とは。いつものことを答えれば良いのか、それとも、この家から帰ってきてからのことを言えばよいのか。判断つきかねて迷っていると、本城が下げていた頭を上げて、苦笑した。
「迷惑なら、追い返してくれて構わないから。一人増えても、今は問題ない」
 軽く口にされた言葉の、裏の意味を考えると胸が痛む。この家からは、ずっと住んでいた住人が一人、居なくなったばかりなのだ。
 置いていかれることが、どれだけ辛いか。自分なんて居なくなってしまえばいいと、どれほど全てを呪うか。種類は違えど、誰しも同じような苦しみを味わったことがあるだろう。この人もそれを、噛みしめているんだろうか、噛み殺しているんだろうか。あるいは、全て飲み込んで、乗り越えたのか。自然に表情を変え、俺を応対する様からは、想像がつかない。
 そんなことを考えると何も言うことが出来ず、俺は黙ったまま、台の方に視線をやった。さっきまでと変わらず、絵と写真がそこにある。
「――人間が、苦手な奴だった。空は。家族以外の人間が、苦手で、嫌いで。色々と、仕方がなかったんだろう」
 本城が淡々と語った。そう聞いても、写真の中の少年の笑みは、やはり人なつっこそうだった。本城の言葉を聞く限り、空、という名前なのだろう。
 ちょっと息をついて、本城の方に目を戻すと、今度は彼が、部屋の隅に視線を送っていた。大切なものを愛でるときのような、壊れ物を慈しむときのような、柔らかで穏やかな目をしている。それは、思わず息をのんでしまうほど、きれいな表情だった。
 この人は、きっと、自分の兄弟たちを、心から愛しているのだろう。今の表情だけで、そう思える。
「この家には、ピアノが一台あるんだが」
 いきなり始まった話題に、俺は面食らいつつも、一度頷く。
「あれを弾くのは、他の誰でもなく、春だった。みんな、色々とせがんでいたが……はじめは、空だったな。まだ春のことを怖がってた空が、ピアノの前に座ってた春に、すごく小さい声で何か弾いて欲しいとねだったのが」
 そんな小さなエピソードのどこが楽しいのか、本城は楽しそうに笑いながら、言った。微笑んだまま、写真の方を、優しい目で見ている。
 俺は、今の話で、春が出てこない理由が何となく合点がいって……だからといって、特に何も思わなかった。俺が理解したところで、春に部屋を出るように説得できるわけでない。あいつが、決めることだろう。
 本城が目を伏せて、息を吐いた。しばらくの沈黙の後、本城はこちらを見ながら、立ち上がった。つられて立ち上がろうとすると、目でそれを制され、仕方なく正座の姿勢に戻る。
「……和菓子は食べられるか?」
「いえ、お構いなく」
「そう言わずに、もてなされていってほしいんだが」
 間髪入れずに言った俺の返事に、本城は眉根を寄せて困っているような顔を見せた。更に辞意を示そうと、俺が立ち上がりかけると、その表情のまま、また口を開く。
「供え物を買いすぎてな、仏壇は一つしかないのに。それで、期限が迫っている」
「は、」
 その、困りながら言われた内容に、間抜けな反応を返して。何だか毒気を抜かれた俺は、すとんと、浮かせた腰をまた落ち着かせた。それを肯定ととったのか、本城は満足げに頷いて、開いたままだったふすまから出て行った。
 俺は、長いため息とともに、ずるずると力を抜いて、机に突っ伏す。なんだ、あの人、つかめない。
 この家の人はもっとあからさまに、悲嘆に暮れているのかと思っていた。離れて暮らしていた春ですらああなんだから。それがまるで、何ともないみたいな、もう傷は治ったみたいな顔で、接されて。あまつさえあんなに甘い声で、思い出を語られて。……ダメだ、分からない。一週間と少しは、身近な死を過去にするには、一般的に十分な時間なんだろうか。
 もう一度、後ろを振り向いて写真に目をやる。人嫌いだったという。この少年。春がピアノを弾き始めた理由。
「はじまり、か」
 自分の、この道を決めた理由は、もうとっくに失われてしまった。誰かの死という形ではなかったけれど、それに近しい形で。それでも、俺のこの手はネックを握って、弦を鳴らす。もう、それ以外どうしようもなかったのだ。
 写真を見るのをやめ、外に目を向けると、灰色の空が広がっていた。寒々しい、と思ったのとほぼ同時に風が吹き込んできて、目を瞑って肩をふるわせる。かたん、という音がした。目を開けて音のした方を見ると、写真立てが倒れている。
 自分のせいではないけど、倒したままにしているのも忍びなくて。元に戻そうと、台の方に近づく。すると、写真立ての裏側に、一枚、プリクラらしきものが貼られているのが見えた。持ち上げて近くで見てみると、写真の少年を中心に、本城や春やさっきの男や、見たことのない女の子や男の子が、笑顔でピースをして写っていた。
 ……どういう意図があって、こんなことをしてるのか、俺には分からない。けど、何故か無性に苦しく、悲しくなってしまう。思わず、涙がこぼれた。
「おい……大丈夫か」
 戻ってきた本城が、俺に声をかける。慌てて、写真立てを元の位置に戻し、手の甲で涙をぬぐって、大丈夫です、と返すと思った以上に声が震えてしまって。これでは、逆効果だ。
 本城は持ってきた盆をちゃぶ台に置くと、こちらに近づいてきて、俺の隣にかがんだ。そして、手のひらで背中をさすられる。
「あんたが泣くことは、ないだろう」
 でも、ありがとう。小さい、穏やかな声でそう言いながら、本城は子どもをあやすように、俺の背中をさすり、軽くたたいた。その手が大きくて温かくて、また、苦しくなった。

 マンションに戻ると、扉の前で、音葉が倒れていた。……正確には、床で倒れ込んで寝ていた。一応床暖房がついているけど、いくら何でも風邪を引く。力仕事は苦手だけど、仕方がないから、音葉を抱きかかえて、ソファの上に寝かせる。それから、寝室から毛布を一枚引っ張ってきて、肩まで覆うようにかけてやった。そろそろ精神の糸が切れたんだろうか。……六日もこんなことをやっていれば、仕方がない。
 音葉がこんなに執拗に春を待つのは、前例があるからだろう。春の言う「先生」が亡くなった当時、俺はまだ春と知り合っていなかったが、音葉は春とすでに仲が良くて。「先生」の死んだ直後、今と同じように部屋に閉じこもっていた春を、無理矢理部屋の外に引っ張り出したことがあると、聞いている。そのときは三日、それでも、引っ張り出したときの春は、ぼろぼろだったという。
 今回はもう五日、強行突破することも出来やしない。相当、心配で――ストレスがかかっていたのだろう。俺なんかがその苦労をはかるべくもない。
「全く、どうしようもないなあ」
 床に座って、ソファの背もたれにもたれかかりながら、呟く。誰からも返事がなくて、長いため息をついてしまった。
 開かない扉。それでも俺は、焦る気にはならなかった。でも、もし、音葉が寝ている間に何かあったら、音葉がかわいそうだから。とりあえずその代わりに、扉の前で、待っていることにする。
 時計の音をBGMに、スコアをぺらぺらとめくった。次のアルバムか、ツアー用に作った曲たちだ。
 どのメンバーも作詞も作曲担当するのだが、最終的なスコアを書き上げるのは、うちでは全部春の仕事だ。ときどきスコアを書かずに、はじめのラフな走り書きだけで、最後まで突っ走ることもあるけど。色々調整してあるものをいじるのなら、春と直接話しておきたい。だから、今のうちに全部チェックしておいて、色々終わったら、一気に押しつけよう、という魂胆で、とりかかる。
 時計の針の音と、紙をめくる音と、時々、鉛筆が紙の上を走る音。3つの音の繰り返しが、何となく心地よくなってきた頃に、突然、異質な音が混じった。がちゃがちゃと、玄関の方から、鍵をあける音。鍵を持っている、ということは、メンバーか。足音が一つだが、拓だとしても直だとしても、ずいぶん早く解決したものだ。
 徐々に近づいてくる足音に作業の手を止めて、顔を上げると、……期待していた二人とは全く違う男が、そこに立っていた。脱色した琥珀色の髪、全身黒ずくめ。かつてのこの部屋の持ち主。
「獅子尾……何で入ってくるんだ」
 若干呆れ気味に言うと、獅子尾はそれを鼻で笑った。相変わらず傲岸不遜とか傍若無人とかが似合いそうな男だ。
「ここは俺の家でもあるだろう」
「嘘。もう要らないって言ったくせに」
 要らないって言ったから、俺がもらって有効活用した。なんの問題もない。
 俺の切り返しに虚を突かれたのか、獅子尾は目を丸くしてちょっとの間黙っていたが、すぐに不快感をあらわにして、舌打ちをした。そして、俺の隣にあぐらをかいて座る。前会ったときより伸びた前髪が、少しうっとうしそうだった。
「ずーっと、天の岩戸か」
「もう、六日目かな」
「なんだって、また……」
 そう言ってため息をつき、獅子尾はじっと扉を見つめた。獅子尾と春は決定的に仲が悪いけれど、本質は、結構似ていると思う。なんだかんだ言いながらしっかりここまでやってきているのが、良い証拠だ。
 さすがに部外者の前でスコアを見るわけにも行かず、俺も手を止めて、扉を見た。厚い扉、鍵は内側からだけ。完全防音で、あちら側の声は聞こえないしこちら側の声も届かない。天の岩戸、とはよく言ったものだ。
 獅子尾の方を見ず、扉を見つめながら、獅子尾、と呼びかける。獅子尾がこちらを見る気配はない。俺は、視線を向ける先を変えないまま、続けて口を開いた。
「自分が音楽を始めた理由がなくなったら、どうする」
 ぴしりと、空気にひびが入った音が、聞こえた気がした。数秒待って横を見ると、獅子尾はさっき以上に不快感をあらわにした表情で、俺を見ていた。
「……お前が、それを、俺に、聞くか」
 ……言いたいことはよく分かる。俺も、同じことをされれば怒るだろう。何年前の話であっても、あのできごとの意味は色褪せない。でも、今は俺たちの問題じゃなく。これはあくまで仮定の質問。
 一応、獅子尾も分かっているのだろう。今にも胸ぐらをひっつかんで首を絞めてきそうな雰囲気を引っ込めて、でもこちらには背を向けて、口を開いた。
「どうも、しない。きっかけが何であれ、もう、音楽は俺の人生だ。途中でやめる気なんか、さらさらねえよ」
 俺の期待通りの答えを口にして、獅子尾は不敵に笑う。傲岸不遜傍若無人、でもそれが様になってしまう。そんなところが、獅子尾らしかった。
 ――さあ、春。この答えが、聞こえているか?

 獅子尾が帰り、夜になっても、ソファで眠る音葉は、目を覚まさなかった。
 だから俺は仕方なく、扉の前の座り込みを継続中だ。床に座り、ソファの背もたれにもたれかかりながら、スコアをめくる。響くのは。三つの音だけ。
 スコアの最後のページをめくると、思わずため息が出た。獅子尾がすぐに帰ってから、予想以上にはかどったが、疲れた。……コーヒーでも入れよう。そう思い立ち、スコアと鉛筆を床において立ち上がる。
 それとほとんど同時に、キィ、と音を立てながら、目の前の扉が開いた。
 あんまりに突然で、俺は何度か目を瞬かせる。でも、やっぱり見間違いなんかじゃなく。開いた扉から冷たい空気が流れ込んできて、続いて、人が、出てきた。こけた頬にひどいクマ、ぼさぼさの髪とひげ。一目では誰か分からないほど、変わり果てた容姿の春が、出てきた。
「……お帰り、春。聞こえてた?」
「ただいま。ばーっちり、聞こえとったわ……」
 春の右手には、無線の受信機。扉を閉め切ると外の様子が分からない楽器の部屋に、外の部屋の音が聞こえるようにと、置いておいたものだ。俺が、個人的に。鍵とは違って、こちらは、親機からしか受信の可否をいじれない、という特殊なもの。今日、春の実家に出かける前にオンにしてたから、電池が相当古くなってでもいない限り、さっきの獅子尾の言葉は、しっかり春にも聞こえていただろう。
 春は苦笑しながら、出てきたばかりの部屋の中を指さす。
「書いた楽譜あるから、後で回収しといて。後、獅子尾に伝えといて、なめんな、って」
「はいはい、っていうかふらついてるけど、大丈夫?」
「大丈夫、眠い、だけ……」
 語尾が消えていくのと同時に、春の体も前につんのめって倒れてくる。俺は慌てて腕を広げて、倒れてくる春を受け止めた。冬だからまだましだろうけど、風呂に入ってないからだろう、汗臭い匂いがする。でも、それ以外に怪我とか、様子のおかしいところはなくて、ちょっと安心した。
 受け止めた体を、なるべく優しく、床の上に寝転がらせる。ああ、毛布をもう一枚とってこなければ。
 春の頭を一度撫でてから、立ち上がる。早く、毛布をとってきて。春の書いた曲を聴こう。春が、ひとりぼっちになって作った音楽を。
 春が目を覚ましたら、話したいことがいくつかある。春の実家のこと、兄弟たちのこと、あの家にあるというピアノのこと。春がピアノを弾き始めた頃の話、どうして、ピアノをやめたのかという理由。いずれにせよ、春が音楽を始めて、この世界で生きていくと決めたわけを、聞いてみたかった。
「……難儀だなあ」
 はじまりの理由がなくなっても。これから先、続ける理由がなくなっても。俺たちは音楽から逃げられない、捨てられない。だって、理由があろうとなかろうと、俺たちが生きて行くには、これしかないんだから。
 寝室から持ってきた毛布を春に被せて、閉め切られていた部屋に足を踏み入れる。暖房器具を使っていなかったらしく、底冷えのする寒さだった。
 明かりをつけると、散らかっている部屋の様子がよく分かった。床に大量の五線譜が散乱していて、その大半は、少しノートが書かれた後、ぐちゃぐちゃと塗りつぶされている。ギターとベースは弾きっぱなしで床に放り出されているし、いつも大切にされているアップライトのピアノは、弾き終わったというのにふたも開きっぱなしで、椅子も、ピアノから離れたところに転がっていた。
 黒塗りされた五線譜を何枚かまとめて拾い上げて、よく見てみると、紙の隅に、必ずアルファベットの走り書きがしてあることが分かった。英語でないから、意味までは分からないけど。とりあえず黒塗りの楽譜を全部回収して、ピアノの上にまとめておく。それから、どうやら無事らしい紙を集めた。無事とは言っても、鉛筆で何回も上から音符を書き足したり消したりしているから、汚さは、黒塗りのものと大差なかった。それらにもやはり、アルファベットの走り書きがある。曰く、「Memento mori」「Carpe diem」「Lacrimosa dies illa」「Dies irae」「Aeternam habeas requiem」。その意味を理解すると、長い、ため息が出た。
 本当に、難儀だなあ。こんな形でしか泣けないなんて。
 部屋の中央にあった譜面立てに紙の束を置いて、隅に追いやられていた椅子を、その前に引き寄せる。床に転がっていたギターを手にとって、椅子に腰掛けた。軽く調弦をしてから、はじめの小節の音を、鳴らす。彼のために泣く人たちに、届きますようにと、祈りながら。そうして、泣き終わったら、また、楽しい音楽を始めよう。
 ギターを弾きながら、大きく息を吸って。一人、メロディーを口ずさんだ。



2011.08.03