不幸ごっこ


 鳥が。
 鳥が、泣いている。
 そう思ったのは、後味の悪くなるような、かすかな音が聞こえたから。
 シーツの海から体を起こして手を伸ばし、白いカーテンを開けて、窓の鍵になっているかんぬきを外す。でも、内と外、二重の鉄格子がはめられた窓は、鍵を外したところで開けられる訳じゃない。だから、これはただの気分。自分がこの部屋から解放された気になるための、ぎしき。
 ベッドの上に膝をついて立って、鉄格子の隙間から外をのぞく。青い空、白い雲、太陽は穏やかな光を絶やさない。いつも通りの光景。少し下を向くと、中庭に植わっている木のてっぺんが見える。濃い緑とそれより少し淡い緑。きっと、新芽がでたばかりなんだろう。
 そのうちの一本のてっぺんに、居た。鳥が。一匹だけ、茶色い丸い巣の中に。ぽつんと、所在なさげに。あまり大きくはないから、きっとことりだろう。親は、帰ってくるのかな。
 そう、思った瞬間、視界の外から黒い塊が飛び込んでくる。声をあげる間もなく、それは巣の上に降り立った。もう巣に居た鳥と同じ感じの、それよりも大きな鳥。
「……良かったね」
 これで、寂しくない。お前は。
 息を吐いて、力を抜く。体がずんと重くなるような錯覚。このまま沈んでしまえば良い。この白が届かないところまで。もう、何も届かないところまで。
 仰向けになって、天井に両腕を伸ばす。握った手のひらは当然なにもつかまない。爪が手のひらに食い込むほど力を入れても、確かな感触は何一つない。熱くも冷たくも痛くもかゆくも。
 自分ではそれをなんとも思わないけれど、きっとあの人たちは悲しむだろう。それを思うと、何故だか笑えてきた。ははは、と乾いた笑い声が。自分の喉から出ているのに。
 まるで他人事みたいにそれを見下ろしていた。天井の隅からの視線で。
 ほら、見てみろ。手のひらと、爪の間から、血が出ている。絵の具みたいに赤い血が。
 あざやかなその色は痛みを呼び起こすためのもののはずなのに、ちっとも痛くない。きっと、笑い声と同じで他人事だからだろう。何もかも他人事だ。自分の事なんてどこにもない。だって、自分が分からないんだから!
 がらりと、窓の向かいにあるドアが開いた。白い服の人たちが走って部屋に入ってくる。一人は両手を押さえつけて、もう一人が手首に針をあてる。なんの?注射の、針。
 そのはりが吸い込まれるようにひふを刺して、何か得体の知れないものが体に入ってきた。それもきっと、すぐ自分になるだろう。そうして、わけのわからないものがたくさん混じって、できあがったのが、俺だよ。
 笑い声が小さくなっていく。もうそれは笑い声じゃなくて、あえいでいるように聞こえた。手はいつのまにか開いていて、真ん中からだらだらと、だらしなく血が流れ続けていた。
 ベッドの横に立っている白い服の人は、注射を持ったまま、俺を見ていた。昔は注射が怖かった。まだ、針で刺されると痛かったから。まだ、注射で入ってきたものに自分が食べられてしまうと思ってたから。でも、頑張って立ち向かったんだ。隣におかあさんが居てくれたから。おかあさんが居なくなったら、次はおにいちゃんが居てくれたから。そしたらいつの間にか、注射が怖くなくなっていた。だからかなあ。もう、注射のとき誰も側に居てくれないんだ。
 何にも怖くなくなっちゃったから、みんな俺から遠くなっちゃったのかなあ。
 それとも初めから、だれもいなかったのかもなあ。
 そう考えると、さっきまでどこも痛くなかったのに、少しだけ心臓の辺りが痛くなった。それを耐えようと、目を閉じる。
 もう笑い声は聞こえない。鳥の泣く声も。
 静かだった。



 生きている人が怖かった。
 呼吸をして歩いて手をつないで、ころころと表情を変える、生きている人間が怖かった。触れるだけで吐き気がして、近づこうとして足がすくんだ。
 俺には、生きている人間が、自分と違うものに思えた。自分達と違うものに思えた。俺に一番近かったのは、天井からぶら下がって、ときどきゆらゆら揺れるママだったし、テレビの前でうつむいたまま動かないパパだった。うん、一番古い記憶の中のにんげんが、その二人。
 だから、動き回るあったかいいきものが自分とおなじものだって、全く分からなかった。いきなり部屋のドアを開けて、ママとパパをどこかへ連れていった大きないきものが、自分を抱き上げたあったかいいきものが、自分と同じ何かだなんて。
 怖くて暴れて逃げ出そうとしてできなくて、せめてママとパパみたいにじっと静かにしていたら、おなじところにつれていってもらえるかなって考えた。二人には会えなかったけれど、はじめて自分と同じものに会えたから、あれで良かったんだと思う。
 ううん。あれは同じなんかじゃなかった。俺のかみさま。俺に、俺と同じものをくれたから。
「ねえ、先輩」
 呼び掛けても、先輩は顔をあげない。ただもくもくと、自分のキャンバスに向かっている。それが嫌じゃない。自分以外のことに興味を向けないなんて、人形みたいじゃないか。
 俺は、生きた人形のような人間は好きだ。例えば、ひとつ以外の表情をしない人。触ったら冷たそうな人。でもほんとに触ったりはめったにしない。触ってみて、もしあったかかったら、とてもとても悲しい。
 だからこうやって、少しはなれてお話をするのが、一番良い。いすに座って、ぼんやり相手の姿を眺めながら、言葉を待つのが良い。
「わたしは、けっこうおまえのことが好きだけどね」
 先輩は、顔をあげないまま、しゃべりはじめた。
「おまえのいう神様には、賛成できないし賛同すべきでないと感じるよ。そんなもの居なくたっておまえは生きていけただろう。もしかしたら、そのほうがずっとまともだったかもしれないじゃないか。うん、確実にそうだったような気がするよ。そんな神様がいたっていなくたって、お前は初めから一人だったよ。だったら、神様なんていなくて良い。そんなあやふやな絶対を作るべきでないんだ、わたしたちは」
 先輩はそうやって、俺のかみさまについて首を振る。いつものことだし仕方がないと、俺はため息をついた。好きな人にわかってもらえないのは、少し悲しい。
 うつむくと、白かったはずの床が、オレンジ色になっていた。びっくりして周りを見てみると、窓の外の空がオレンジ色だった。火の色だった。夕焼けだ。
 夕焼けは、好きだ。いつでも変わらずに燃えてるみたいな色をしてる。真っ赤に染まった部屋の中で歌うのが好きだった。変わらない顔の二人が、少しだけ優しく見えたから。
 ちょっとだけ、その頃と同じ歌を口にしてみると、悲しいね、と先輩が言うのが聞こえた。何が、と聞き返してみても、返事はない。だから、続けて歌を歌った。
 ゆうやけこやけでひがくれて、やまのおてらのかねがなる、おててつないでみなかえろ……ああ、どこに帰ろっか。俺はあのとき、どこに帰りたかったかな。首をひねって考えてみても、思い出せなかった。
 あの部屋に居たのはずっと昔だった気がするのに、俺は相変わらず人間が怖い。生きている人間が怖い。自分が生きていることが怖い。長じて俺は、二人は人間でなくて死体だったことを知ったけど、理解はできなかった。俺の中でにんげんと言われて浮かぶのは、やっぱりあの二人だった。
 俺は、神様が生きろと言うから、怖いけど生きてるんだよ。それでも先輩は、神様なんて要らないって言う?
「それでも、神様は要らないんだよ。だって神様が居なくなっても、お前は生きてるよ。神様がお前を見捨てたって、お前は生きてるよ。神様が居なくたって、お前はそこに要るんだよ」
 強い声で先輩は言った。俺はそれにうなずいて、首をひねって、やっぱりうなずいた。先輩に同意するのではなくて、違和感を飲み込むために。
 自分でも、自分は生きてると言うし、他の人にもそう言われる。だけど、俺はその言葉を変に感じる。間違っているように感じる。ただ、どうしてそう思うのかがわからない。
 もっと、何もかも簡単だったら良い。夕焼けがきれいなことみたいに、簡単なら。
 もう一度、オレンジ色に染まった窓の外を見た。どこかから、からすの鳴き声が聞こえてくる。なぜか寂しくなるその声に耳をすませていると、椅子を引く音がした。
 見ると、先輩が立ち上がっている。
「さあ、春海。烏が鳴くから、帰ろうか」
 絵を描かなくなった先輩は、もう他の生きている人間と一緒だ。だからそちらを見ずに、うなずいてから部屋を出る。オレンジ色の窓に背を向けて、誰にも会わないと良いなあと考えながら。
 考えながら、後ろで先輩が歌っているのを聞いていた。
 ゆうやけこやけ、からすといっしょに、かえりましょ……



 閉ざされた部屋にも光はさす。
 それを知ったのは、ここに来てはじめて夕焼けを見たときだった。カーテンを通ったオレンジ色の光が、部屋の中を燃えてるような色に染め上げる。
 そのとき俺は、部屋の真ん中のベッドの上にうずくまって、何故か震えていた。寒くも熱くもなく、どこも痛くもなく、怖いものもなかったのに、何故かがたがたと震えていた。
 それでも夕焼けはきれいだった。
 今日の夕焼けもきっときれいだろう。そう考えるけど、確認することはできない。
 窓のない閉ざされた部屋には、どうやっても外の光が差しこむことはなかった。おかげで今が昼なのか夜なのかもわからない。食事は、一日二回やってくるけど、それが時間を教えてくれる訳じゃないし。
 まるでここだけ別世界みたいだ。はは、笑ってみると、その声が変に響く。尾を引いてなかなか消えない流れ星みたいに、頭の中に長く残って何度も響いた。
 流れ星の尾がなんなのか、教えてくれたのはだれだったっけ。俺はあれも何かが燃えてるのだと思っていた。とても眩しいから。本当はもっと何かややこしいことで、俺には理解ができなかった。
 そういう話は、また聞けるかなあ。誰にしてもらったか思い出せないけど、いつか、まただれかに。
 寝返りを打つと、白いドアが視界に入った。あれは鍵がかかっていて、開かない。鍵穴もかんぬきもこちらがわにはついていなくて、勝手に開けたりできない。だれかが入ってくるんじゃなかったら、このドアは開かない。何故だか俺は、徹底的に閉じ込められているらしかった。
 こんなことしなくても良いのに、と思う。閉じ込めたりしなくても、俺はなにもしない……もう何も怖くないから、だれかを避ける必要もだれかを攻撃する必要もないから、閉じ込めなくても、良いよ。でも、特別外に出たいとも思わなかった。きっとここにも慣れたからだろう。
 することもないから、目を閉じて眠ろうとしたら、かちゃ、鍵の開く音がした。目を開けてドアの方を見ると、まさにドアの開いたところだった。黒いセーラー服を来た女の子が、部屋に入ってくる。
 一呼吸置いて、ドアはピシャリと閉められた。続いて、かちゃ、鍵の閉められた音。閉じ込められてるのが、二人になった。
 真っ白な肌に胸の辺りで切り揃えられた黒い髪、真っ赤なくちびる。人形みたいな綺麗な顔。ベッドの上に起き上がって、こんにちは、とあいさつをする。もしかして、おはようかもしれないし、こんばんはかもしれない。
「こんにちは、先輩」
 この単語が頭に浮かんで、何故か、この人はそう呼ぶべきだと思った。この人に見覚えはないように思うけど、何故かそう思った。だから、それを口にした。すると、女の子は辛そうに顔を歪めて、でも笑みを作りながら、こんにちは、と返してくれた。
「俺が知ってる人なのかな、ちょっと今分かんないけど」
「そうだろうと思いながら来たから、構わないよ。ああでも……思ったより元気そうだな、春海」
「元気かな。病気はしてないと、思うけど」
「いや、たとえ元気じゃなくても、お前が生きてるだけで、私には十分かな」
「あれ?俺は、生きてないと思うよ?」
「――え?」
「多分、そうだと思う」
「相変わらず、分からんやつだな」
 女の子は苦笑して、髪をかきあげた。動かなかった方の手には、紙の筒を持っている。何を持っているのだろう、視線をはずさないまま、首をかしげる。
 すると、彼女はこちらに近づいてきた。足が動く度に、靴のかかとが床を叩く、気の抜けた柔らかい音がする。それに耳を傾けていると、いつのまにか、女の子が目の前に立っていた。
 思わず、その子を見上げる。
 辛そうなに微笑んだ表情のまま、女の子は、手の中の筒を俺に差し出した。俺がそれを受けとると、開けてみて、と言う。持ってみて分かったけど、かなりしっかりした紙だ。筒をくるくる回していると、一ヶ所テープでとめられた場所があった。それをはがして、筒をとく。
 出てきたのは、鳥の絵だった。鉛筆で描かれたらしい白と黒二色の絵。長く下にしなだれ落ちる尾と羽をしていて、目の周りは白い。一瞬白黒の写真なんじゃないかと思うほど、精密に描かれたその絵の中で、一際目立ってるのは鳥の目だった。その部分だけ、ガラス玉をはめこんだみたいに、作り物めいて見えた。
「極楽鳥という鳥でね、私は、お前を描いたつもりだけど」
「俺は、鳥?」
「ううん、人間。でも、私に人間は、描けないから」
 女の子はそういうけれど、こんなにきれいな鳥を描けるなら、人間を描くことなんて、簡単じゃないだろうか。俺はそもそも絵が描けないと思うから、もしかしたら人間の方が難しいのかもしれない。こんなきれいな鳥の絵を描く人でも、描けないほど。
「春海にあげるよ」
「こんなにきれいなのに、良いの?」
「きれいだから、あげたいんだ。餞がわりとおもって、受け取って?」
 にっこり笑う彼女につられて、俺も思わず、笑顔になった。ありがとう、と言おうとするけど、声が出ない。代わりに、何故か涙が流れた。びっくりして、パジャマの袖口で目元をぬぐう。ちらりと見えた女の子は、とても驚いた顔をしていた。それがすぐ、泣き出しそうな顔になる。俺は、涙をぬぐいながら、声は出ないけど、ありがとうと言うように口を動かした。女の子は、なんとか笑ってくれた。俺はそれにほっとして、でも止まらない涙を、また袖でぬぐった。
「さて、急に来たから、もう帰らないといけないんだけど……また、会いに来ても良いかな?」
 女の子の問いかけに、俺はすぐにうなずいた。何せ、断る理由が思い付かない。俺にはすることがなかったし、大抵一人きりだし、誰かが来てくれるなら、多分とても嬉しい。
 帰ってしまいそうな女の子にもう一度お礼を言おうと口を開くと、同時に鳥の鳴き声がした。夕方に泣く鳥の、鋭い声が。何も見えないけれど、思わず、ドアと逆側の壁を振り向いてしまう。この向こうには、きっと、オレンジ色の世界。オレンジ色の、空の世界。
 どんな風に見えるだろう。昔じゃなくて、今の俺なら。
 考えていると、聞き覚えのあるメロディーの口笛。振り向くと、女の子が吹いていた。俺もさっきまで見ていた、白い壁をにらみながら、だ。そうしてワンフレーズ分終わると、彼女は口笛をやめた。代わりに。息を吸う音。
「春海は……今ならどこに、帰りたい?」
 質問の趣旨が分からなくて、首をかしげる。すると女の子は、また泣き出しそうな風に、表情を歪めた。今度はどうしようも、できない。ただ、頭の中で、さっきのメロディーに合わせて歌の詞が流れていた。
 ゆうやけこやけでひがくれて……、ことりがゆめをみるころは、そらにはきらきらきんのほし……



 夕方の路地裏を一人で歩いていると、色んな音に気がつく。烏の声はもちろん、あちこちの井戸端会議の声も、どこかの家の、夕飯を準備する台所の音も、それから、後ろからついてくる足音も。
 いつもの通学路の、人通りが少ない道に入ってから、ずっとそうだ。誰かが、俺と同じペースで後ろをついてきている。偶然なら良いけど、もしそうじゃなかったら。ため息が出そうだ。わざわざ人間のいないところを選んだのに、誰かに知られたんじゃ意味がない。
 俺は立ち止まって、後ろを振り返った。一瞬誰も居ないように見えたが、視線を下にやると、人影があった。かがんでいたから、すぐには分からなかったのだ。くつひもでもほどけたのだろう。
 じゃあ、やっぱり気のせいか。そう、結論付けようとしたとき、突然、かがんでいたはずの人影が動き始めた。陸上のスタートの要領でしゃがんだ状態から、地面を蹴り、俺に向かってまっすぐ、走ってくる。何が何だか分からなくて、俺は動こうにも動けなかった。
 もう目の前、というところで、人影が手の中に何か光るものを持っているのが、見えた。まるで、ナイフみたいな……
「……え?」
 脇腹に、鋭い痛み。見ると、分厚い刃が、右脇腹に刺さっている。ああ、やっぱりナイフだったのか。冷静に考えている自分がいる、のが、おかしい。世の中理不尽なことはいっぱいあるけど、その中でもこれは最高級の部類に入るのじゃないだろうか。帰り道に見知らぬ人間に刺される、なんてさ。
 まるでスローモーションビデオを再生してるみたいにゆっくりと、震える腕がナイフを抜くのを、俺は身動きもとれずに見ていた。
 まっかなちにぬれたぎんいろ。
 からん、とナイフが落ちる音と同時に、人影は走り去った。それを追いかけようとして、前のめりに倒れる。バカだなあ、こんなに血が溢れてるのに、動けるわけ、ないや。
 刺されたらしい場所にてをあてる。単純な刺し方でなくて、抉るような刺し方でもしたのか、思ったより、傷口は広かった。そこから血が溢れている。あたたかい血、なまぐさい血、生きてるものに流れる血。やっぱり俺も生きてるのか……気持ち悪い気持ち悪い気持ちが悪い! こんな思いをするくらいなら、あの、静かな部屋に帰りたい。すべてが留まって淀んで、ただ死んでいたあの部屋。おれのうまれたばしょ。
 ああ、そうか。俺が、あの部屋を出たことが、間違いだったのだ。
 なんだか唐突に、そう納得がいった。生きてる人間が気持ち悪いことにも、自分は生きていると口にするのに違和感があることにも、あの二人が死体だと理解ができなかったことも。なんのことはない、俺にとっては、死んでいることこそが、ニュートラルだったのだ。死んでいる人間こそが自分と同じ側に属するものだったからだ。だから、こんなに冷静に、流れる血を、見ていられる。
 だらだらと流れる血は、きっと死ぬまで止まらない。まるで、生きることみたいだ。生きることは、大体において、確固たる意志じゃなくて、惰性で続いていくものなんだろう。
 ……死ぬことは、怖くない。前からそうだったけど、今はなおそうだった。ただ、ここは少し、寒い。燃えてるような色に包まれているのに、泣き出してしまいそうなほど、寒かった。



 寒い。体が震えるほど、寒い。
 気温を感じたのは、ずいぶん久しぶりな気がする。
 布団から首だけだして周りを見ると、閉まっているはずのドアが開いていた。まるで、俺を誘い出すみたいに。
 寒いから、布団の上の毛布を体に巻き付けて、床に立つ。なんだか、こうして床に立つのが、久しぶりな気がした。うまくバランスがとれない。足を踏み出す度に、重心が左右にぶれてしまう。
 少しの距離をかなりふらつきながら進んで、ドアのレールの上で立ち止まった。廊下に首を出して、左右を見る。右には誰もいなかったけれど、左には、人がいた。俺のかみさまが、慧ちゃんが居た。
 とても長い間会っていなかった気がして、その姿が見えてうれしくて、慧ちゃんの方に向かって走り出す。歩くだけでもうまくいかなかったから、走るのは当然うまくいかない。何度も足がもつれそうになった。そして、残り数歩、というところで、ついに足がもつれて、派手に転んだ。咄嗟に腕で顔をかばったけど、他のところが痛い。腕は当然、膝も足首も。
「そんなに慌てなくても、俺は逃げんぞ」
「うん、知ってるよ。慧ちゃんは、俺たちから逃げたりしない。でも、久しぶりに会えて、嬉しかったから」
「そうか……」
 差し出された手を借りて、立ち上がる。廊下も真っ白だから、転んだのにどこにも汚れはない。ただ、目の前の慧ちゃんの靴だけ、何か土で汚れていた。
 今日はどうしたの、と慧ちゃんに目線で問いかけると、疲れたようなため息をついた。でも、表情は少しも変わっていない。
「色々と、後始末が終わったから……お前を迎えに、な」
「それで疲れてるんだ。疲れてるのに、わざわざ、ありがとう」
「どういたしまして」
 手を握ったまま、慧ちゃんは歩き出す。手を引かれたまま、俺も歩き出す。すぐそばの階段を、上っていく。
 昔、俺が小さかった頃、こうやって手をひかれて色々なところに行った。初めて行く幼稚園にも学校にも、あの頃には遠かった海にも、ごく近所の駄菓子屋さんにも、こうやって、連れていってもらった。懐かしい話だ。
 たくさんのものをこの人にもらった。楽しかった、嬉しかった、夢みたいだった。でも、夢ならいつか覚めなければ。もう、そろそろ、いいだろう。俺は、あの路地裏で血を流しながら、そう得心した。
 夢は一夜限りのものだから、もう一度なんて、ないんだよ。
 俺は悲しくない、俺は……慧ちゃんと、俺のすきな家族みんなを泣かせてしまうかもしれないこと。それだけが、少し気にかかった。きっと聴こえないけど、精一杯のごめんを、贈るよ。それと、ありがとうを。
 階段の最後の段を上り終えると、扉があった。慧ちゃんはその扉を開いて、俺を外に押し出した。向かい風と外の眩しさに、思わず目を閉じる。恐る恐るゆっくりと目を開けながら見上げると、青い空と白い雲。いつもと同じ、空だった。
 振り返ると、慧ちゃんは外に出ようとはしていなかった。扉の内側で、目を細めて俺を見ていた。
「慧ちゃんは、外には出ないの?」
「迎えと、見送りに来ただけだからな」
「なんかそれ矛盾してるなあ。でも、ありがとう」
「……これ以上、俺たちのエゴばかりを押し通すわけにもいかんだろう。特に、初めお前を生かしたのは、俺のエゴだ。せめてその分だけでも、けじめはつけないと……」
 慧ちゃんが言葉を止め、上を見る。つられて見上げると、いつか見た親鳥が羽ばたいていた。高く飛び上がって、向こうへ飛んでいく。その少し後を、一回りも二回りも小さい雛鳥が、親鳥よりもたくさん翼を動かしながら、親鳥について飛んでいった。
 それを見送る間、俺も慧ちゃんも一言もしゃべらなかった。同じものを見上げて、なんだかもう、すべてわかった気になった。改めて目を合わせても、言葉はもう、要らない気がした。
 慧ちゃんの手が伸びてきて、昔よくしたみたいに、髪をかき回すように撫でた。くすぐったさに、思わず目をつむる。
 手が離れて、俺が目を開けると、もう慧ちゃんはこちらに背を向けていた。そのまま、階段を降り始める。押さえる人のいなくなった扉は、軋みながらゆっくり閉じていく。扉が閉まりきる前に目を閉じて、胸の前で手を組んだ。お祈りのときみたいに。さよなら、俺のかみさま。どうかずっと、幸せでいてね。

 お祈りの代わりを済ませて目を開けるともう寒くはなかった。かといって暑くもなく、さっき転んだ痛みもなかった。不用心にもフェンスも何もない床の端の方に、歩いていく。青い空、遠くに海、近くに町。すぐ下には、鳥の巣をいただく名前も知らない木。もう、鳥の泣き声は聞こえないだろう。あの鳥たちは、どこか遠くへ帰ったのだ。それならば、良かった。
 床の外周の、少し高くなったところに腰かける。下から吹く風が以外に強くて、パジャマがめくれあがりそうだ。
 さあ、静かなうちに、からすがなくまえに、帰ろうか。
 ――深く息を吸って、目を閉じた。


 さよなら、俺のすべて。俺を忘れて、幸せでいてね。

 もう、一夜限りの夢は、見ない。



2011.06.17