砂漠の花


 茅乃さんにプレゼント、と言って同居人が持ち帰ってきたのは、白いキラキラのついた茶色い砂の塊だった。ありがとう、と受け取って見てみると、それはただの塊ではなくて、板状になった砂とおぼしきものがたくさん集まって、そう、まるでバラみたいになっているものだった。蛍光灯にかざしてみると、白いキラキラが一層光って。
「……きれいね。見てるだけで、半日つぶれちゃいそう」
「茅乃さんなら、そんなこと言うと思った」
 そんな風にする私を、同居人が笑う。むっとして同居人を見ると、壁にかけていたハンガーからエプロンをとっているところだった。私の視線には気付いていないらしい。それなのに睨んでいるというのも癪だったから、また、砂の塊に目を戻した。
 もっとよく見てみると、板状なのは砂ではなくて、白いキラキラの方らしい。そこに、砂がくっついている、という状態だ。板の端っこの方は砂がついていなくて、白いままだった。爪でひっかいてみても、傷はつかなかった。この白いものは、何か石みたいなもので出来ているのかしら。
「これって、何なの?どうやって、時雨はこれを持って帰ってきたの?」
「えーと……なんか、仲良くなった教授にもらったんですよ。理学部の」
 同居人が向かい側で座布団の上に腰をおろして、卓袱台に肘をついて体を乗り出しながら、私の方に手を伸ばす。大きい手は、私が両手で持っていたその塊をひょい、と取り上げる。今度こそ、むっとして向かいを見ると、同居人はまたも視線に気付かないようだった。さっき私がしていたのと同じように、蛍光灯にかざして塊を見てみている。
「砂漠のバラ、っていう、変わった石だそうです。名前のまんま、砂漠でとれるそうですよ」
 腕をおろして、板の表面を爪でなぞる。
「とれそうなのにとれないんですよね、砂。どうなってるのか不思議で不思議で」
「なんか、一緒に融けて固まっちゃってるんじゃないのかな。ほら、石だし」
「そうなんですかね。理系じゃないんで全く分からないですけど」
「……時雨、どこでその教授と仲良くなったの?」
「食堂です」
 にっこり笑って、時雨は石を机に置いた。すぐに立ち上がると、夕飯の準備しますね、と台所へ消える。ぴしゃ、とドアの閉まる音がしてから、ああ、ごまかされたのか、と気がついた。よく考えたら、時雨が食堂なんか使うわけない。だってきっと人が多いし、暑いから。でも、なんで仲良くなった経緯を聞かれたくないかは、私には分からなかった。
 机の上の石を手にとって、もう一度蛍光灯にかざしてみる。キラキラと、茶色と白がまだらになっている表面が、その光を反射して、きれい。こんなに複雑で、花みたいな形をしているのに、これは石。自然にこんな形の石が出来たり、果たしてするものだろうか。そう考えながら、私の頭に浮かんだのは、彫刻だった。今目の前にある石よりも一回り大きい塊から、この石が削り出されていく様。風や水や、目に見えない「自然」が彫刻刀をもって、塊を削っていく。少しずつ、少しずつ、美しい花の形を目指して。それには、どれだけ長い年月がかかることでしょう。そうやって出来たこの石の、なんと尊いことでしょう。……それが本当であるとは、限らないけれど。
 ちょっと溜め息をついて、腕をおろす。手の中に収まった石は、ころんとして、何だか小さく見えた。
 とりあえず、と石を机の上に置いたところで、台所の方の扉が開いた。そこから、時雨が顔をのぞかせる。
「茅乃さん、砂糖の買い置きってどこですか?」
 ……どこだっただろう。ちょっとすぐには思い出せない、けれど、台所の収納のどこかにはあったはず。「探すわ」と言って立ち上がると、時雨が何だか申し訳なさそうな笑みを浮かべた。その表情が何だか気に入らなかったので、通り過ぎざまに項を指で強めに弾いた。

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 何となく空気がよどんでいる気がしたので、窓を開ける。網戸的なものはないので、窓を開けると直接、家の外の夜の空気に触れることが出来た。今週の頭から一気に冷えた。それまでは秋なんてないみたいに、夏日が続いてるって、テレビが騒いでいたのに、今週はその逆ばかりだ。
 流れ込んでくる空気は少し冷たすぎる気もしたけれど心地よくて、もっと触れていたくなって、窓枠に腕を乗せて、肩から上を窓の外に出した。本当は、すぐカーテンを閉めて、窓を開ける幅も狭い方が良い。虫とかが入ってきてしまうから。でも、仕方がない。気持ちが良いんだもの。
 家の前の通りの方を見ると、人影が1つ、近づいてくるのが見えた。街灯の光で伸びた影が塀に映っていて、こちらに近づいてくる。近づいてくるにつれて、人影の姿がはっきりしてくる。服の色が濃いせいでよく見えないけれど、たぶん和服を着ていて、髪を高い位置でくくっている。……見覚えがある姿だった。
 とっさに、机の上に置いていた石を手にとって、部屋を出る。暗い廊下を、壁に手を沿わせながら走り、階段をそのままの勢いで駆け下りた。階段を下りて正面の扉を開けると、その音で気がついたのか、時雨が声をかけてくる。
「どうしたんですか、茅乃さん。出掛けるには遅いですよ」
「速水さんっぽい人が見えたの。しばらくお会い出来てなかったから」
 出しっぱなしにしてあった、くたくたのサボを突っかけて、扉の鍵を開ける。後ろから、お気をつけて、と時雨の声がした。何に気をつける必要があるのかしら。分からない。
 外に出ると、窓の側で感じていたよりも数段冷たい空気が、体にまとわりついた。石を握った両手を口に近づけて、息を吹きかける。そうしながら小走りに門を出て、隣家の方を見ると、丁度速水さんが門を過ぎようとするところだった。
 慌てて、速水さん、と声をかける。自分が思っていたよりも、大きい声が出て、少し自分でびっくりした。速水さんは足を止めて、こちらを振り返る。はじめ、きょとんとした顔をしていたけれど、すぐに顔を綻ばせた。小走りのまま、速水さんの正面に立ったときに、速水さんの表情が変わったものだから、私もつられて微笑んでしまった。
「茅乃さんや。久しぶり」
「お久しぶりです、速水さん。……一気に寒くなりましたね」
「ほんまなあ。週の頭まで、羽織るモン要らんかったのに、急に寒くなりよって」
 そう言って速水さんは、わざとらしく肩をふるわせる。紺色の着物の上に同じ色の羽織を着て、更に、首にはマフラーを巻いている。鼻の頭も頬の高いところも、ほんのり赤色に染まっている。下にずれている丸い眼鏡を押し上げて、赤い頬に触れると、とても冷たかった。この人、どれくらい外を歩いていたんだろう。
 それを尋ねようと思って、改めて速水さんの顔を見ると、何故だか間抜けな表情になっていた。そう、目をまん丸く見開いて、口を半開きにした表情。それでも、格好良いなあ、と思う。
「……自分、そういうことは俺とか京間くんにしか、したらいかんよ」
 ややあきれたような表情でそう言われる。理由が分からなくて首を傾げると、さっき時雨がして見せたような笑みを、浮かべた。流石に速水さんにでこぴんのようなことをする気には、ならない、けれど。
 少しうつむいて、そんな笑みを向けられる理由を考えていると、なぜか頭を撫でられた。最近よくされるけれど、手が大きいなあ、と毎度思う。しばらくして、手が退いたので、顔を上げると、今日はどないしたん、と速水さんが尋ねてきた。
 ああ、忘れるところだった。私は、握っていた手を、胸の前で広げてみせる。速水さんに、持ってきたものがよく見えるように。
「これを、見せたくって」
 すると、速水さんはぱあ、っと顔を明るくさせて、口を開いた。
「砂漠のバラ」
 やや興奮気味の声で、聞き覚えのある単語を速水さんが口にする。腰をかがめて、私の手のひらの上の石をじーっと見つめて、一通り見たと思われるところで、顔を上げて、「ちょっと貸してもろてええ?」と言った。私が頷くと、速水さんは嬉しそうに笑って、右手で石を持った。そのまま腕を高く上げて、石を街灯にかざした。
「……きれいやし、立派な石やねえ。君の手のひらぐらいあったんに」
「それくらいだと、大きいんですか?」
「大きさは普通やけど、形がね、すごくきれい」
 色々な角度から石を眺めながら、速水さんは言葉を続ける。こんなにきれいに花の形をしているのは、けっこう珍しい。学生時代は色々と博物学的なものに触れたけど、こんなにきれいな標本は初めて見た。
 白い部分は、これはたぶん石膏。石膏の結晶と、砂粒が一緒になってしまっているから、茶色くざらざらしていて、砂を取り除いてしまうことは出来ない。真っ白なこの石が自然にあったら、それはとてもきれいだろうけど、たぶん見ることは出来ないだろうし、見られなくていい気もする。こんな風に、何かと何かが共存しているのが、自然だと自分は思うから。この石だって、砂漠で生まれたものだから、砂漠の砂が側にあった方が心地よいだろう。
 私が、どういう風に、この石は出来るんですか、と尋ねると、速水さんはわからへんよ、と答える。分からんから、楽しいって気もするけどなあ、と笑う。
「でも、一つだけ、俺でも分かることがあるんや」
 楽しそうな速水さんの言いたいことが分からなくて、私はまたも首を傾げる。速水さんは、石を持った手をすっと空に向けて伸ばして、自分の手の先の石を見た。私もつられて顔を上げる。寒くなってから一段と冴えて見るようになったたくさんの星が、濃紺の夜空に散らばっている。
「この石は、俺らが一生を終えるんより遙かに長い時間をかけて生まれて、同じかそれより長い時間をかけて、死んでいく。それを見届けることなんて人間にはできっこないけど、人間はそのことをようく知っとる」
 それって、すごいと思わん?
 速水さんは黙ったままだけれど、私にはそう問いかける声が聞こえるような気がした。だから、ちょっと頷いて、速水さんを見た。きらきらした顔のまま、石を見ている速水さん。そんな彼の言葉を否定なんて、私はする気にならなかった。そうでなくても、速水さんの言葉には共感するものがあった。この、今私が持ってきた石は、私が死んでも残り続けるのだというところに。私が死んでもきっと残されるだろう、自分の描いた世界を重ねて。
「……そんな現象ばっかりやから、俺は科学を捨て切れへん」
「それは、私が絵を描き続けるのと、同じ理由でしょうか」
「かもしれんなあ」
 苦笑、みたいな表情を浮かべた速水さんは腕をおろして、溜め息をついた。何となく恥ずかしがっているような、雰囲気があった。喋りすぎた、と思ったのかもしれない。
 速水さんはもう一度、胸の前で手を開いて、石を見つめた。そして顔を上げて、私を見る。
「茅乃さん、お願い、してもええ?」
「ええ、内容によりますけれど」
「良かったら、この石貸してくれへん?明日の朝に返すし……」
「良いですよ。どうぞ」
 私がそういうと、速水さんは柔らかく笑って、また私の頭を撫でた。何故このタイミングで撫でるのか、ちょっと分からなくて面食らったけれど。答えた後すぐに家に入られてしまうよりはよっぽどましだったから、甘んじて、髪をくしゃくしゃにする大きな手を受け入れた。


:::


 何だか、口の中がざらざらするなあ、と思って、目を開いてみると、自分の周りには砂漠が広がっていた。訳が分からなくて、何度か瞬きを繰り返したり、頬をつねったり、肘をつねったりしてみたけれど、自分の周りに広がる砂漠に変わりはなかった。
 途方に暮れて、その場に座り込む。地面に手をつくと、体の重みで、手が砂に埋もれてしまった。砂漠だから熱いのかと思うと、そうでもない。むしろ、すこしひんやりするぐらい。常識とは違うその音頭を不思議に思いながら空を見上げると、なるほど、太陽が見えなかった。でも、空は夜のように濃紺色なわけではない。むしろ良く晴れた日の、少し掠れた明るい青色だった。まるで、透明に近いみたいに、美しい青色だった。
 へんだなあ、と思いながら、空を見上げ続けていると、背中の方から、強い風が吹いてきた。耳元でゴウ、と音がするほど。思わず目をつぶって、口を閉じる。さっき感じたざらざらも、このせいだったのかもしれない。背中を、腕を、砂の粒がたたいて痛い。なるべく自分の体が小さくなるように、体を丸めながら、吹き抜ける風をやり過ごす。
 しばらくして、耳元の音が消えたので、そうっと目を開くと、目の前には、大きな砂山があった。今の突風で出来たらしい。風が吹くたびにこんなものがぽんぽん出来ていたら、さぞかし大変だろうなあ、とどこか人ごとのように考える。
 もう一度空を見上げると、そこにはやっぱり太陽は居なかった。
 このままこうしていても、何も変わらないのかなあ、とか。もっとたくさん風が吹いたら、私は山に囲まれて身動きとれなくなるんじゃないのかとか。ぼんやりと考えてみて、私は、とりあえず歩いてみよう、と決めた。
 立ち上がると、服についていたらしい砂がぱらぱらと足元に落ちる。ひんやりとして、まったく湿りっ気のない砂は、結構触り心地がよい。ある程度砂を払い落としてから、しゃがんで、両手にたっぷりと砂を握りしめて、大山に向かって歩き始めた。何故かしら、あの山を越えた方が、良い気がする。
 一歩、一歩、足を前に進めるたびに、足首ぐらいまで砂に埋まってしまって、引き抜くのに苦労をする。今は裸足だから良いけれど、靴なんか履いていたら、大変だっただろう。きっと靴の中が砂でパンパンになって、元の重さよりずっと重たくなってしまったに違いない。
 埋まった足を引き抜いて、前に置いて、引き抜いて、前に置いて、を繰り返して前に進む。手に握りしめた砂は、風もないのにさらさらと、私の後ろに流れていくようだった。坂道に足をかけて、半分ぐらい上ったかな、と思うところで振り返ってみると、白いキラキラとした路が一筋、私の元居た辺りから描かれていた。不思議に思っていると、自分のすぐ後ろに、白いキラキラが溜まっていく。そこで、自分の握っている砂が、このキラキラの正体なんだと気がついた。握ったときにはただの砂だったのに。
 おかしな現象に首を傾げながら、私は更に前に進んだ。だんだんと、足が砂に埋まる量が増えてきた気がするけれど、頑張って前に進む。口で息をしているからか、また口の中がざらざらとしてきた。
 ふくらはぎ辺りまで埋まってしまった足を必死で持ち上げて、前に置いて、後ろになった足をまた引き抜いて、前に置いて。ああ、後一歩で頂上だ。私は、後ろ側の足を引き抜こうとする。が、足は抜けたけれど、バランスを崩して、そのまま前に倒れた。下が砂で、クッションになってくれたのか、痛みは感じない。ただ、転んだ瞬間に、手を開いてしまった。衝撃でつぶってしまった目を開けると、私の手から真っ白な砂がさらさらとこぼれていく。ああ、と声を漏らすと、白い砂が少し口の中に入ってしまった。他の砂と同じで、ただのざらざらする砂だった。
 腕をついて、なんとか立ち上がると、目の前には、畑が広がっていた。砂漠に、畑なんて何だかおかしい気がするけれど、でも、ここにあるのは畑だった。だって、柵があって、畝がある。真ん中には、ぽつんと寂しそうに立つ案山子だっている。何の緑もなかったけれど、畑だった。
 そして、畑の隅には、速水さんが立っていた。いつもの、紺の着物を着て、静かにそこにたたずんでいた。何をしているんだろう、と思ってみていると、おもむろに、速水さんはその場にしゃがんだ。そして、腰の帯に下げた袋から、何かを取り出すと、取り出したものを畝の真ん中に埋めた。立ち上がると、少し移動して、またしゃがみ込む。そして、また立ち上がる。と、速水さんはその作業を繰り返しているようだった。
 私は、速水さんが何をしているのか知りたくて、その場から走り出す。下り坂で、相当勢いがついているはずなのに、見ていた時の距離と同じぐらいのはずの距離を走っても、速水さんの居る畑には着かなかった。見ていたのより、相当距離があったらしい。
 息切れしてしまうほどの距離を走り続けてようやく、下り坂が終わった。あと少し、と思って、更に足に力をこめて走る。もう十メートルもない、というところで、速水さん、と彼を呼ぶと、着物姿の彼はこちらを振り向いた。その、驚いたような顔が目に入った瞬間、何かに躓いたように、私はまた転んでしまう。茅乃さん?と、驚いたような焦ったような声がして、砂を踏みしめる音が近づいてきた。
 顔を上げると、草履を履いた足が目の前にあった。
「大丈夫?」
 声と一緒に、大きな手が目の前に差し出される。私はその手に自分の右手を重ねた。上から引っ張り上げられて、私は立ち上がる。肩についた砂を払い落とされて、それから、頭を撫でられた。
「速水さん、何をしていたの?」
 私が尋ねると、速水さんは、種蒔き、と答えた。いつの間にかまくり上げた着物の袖から伸びる腕が、畑の方を指さす。
「あっこから……ここまで、俺のやから。種蒔き終わったから、いまから水やりやねえ」
「大変ですね。砂漠なんて、水もないのに」
「うん、気ぃ遠うなる。死ぬ前に、花が咲くのは見たいねんけどね」
「何の花ですか?」
「砂漠の花」
 速水さんは、にっこりと笑う。自分のしていることになんの迷いもかげりも、疲れも感じていないという風に。私の目は、速水さんの笑みを通り越して、畑に向かう。きれいに耕された畑。今、あの土の下には無数の命が眠っているのだ。目の前の手の人ので揺り起こされるのを、待っている。
 私も、出来ることなら見たかった。砂漠の花とやらが咲くのを、速水さんと一緒に見たい。だから、速水さんの目を見ながら、口を開く。
「私も手伝って、構わないですか」
 速水さんは、一瞬目を丸くした後、困惑したように眉根を寄せて、頭をかいた。その気持ちは嬉しいけど、と、語尾を濁しながら呟く。はっきりしない速水さんの態度に、苛立ちよりも、困惑を感じた。彼が、こんなに態度をごまかすことなんて、珍しいから。
 速水さんは、ずれていた丸い眼鏡を元に戻すと、その手を畑のずっと向こう側に伸ばして、一点を指さした。
「茅乃さんのは、あっちにあるんよ?」
 速水さんが指さした先。目を凝らしてよく見ると、そこにあるのは、一架のイーゼルと、その上に乗ったキャンパスと、小さな椅子だった。椅子は、とても古いものらしくて、あちこちが絵の具で汚れている。――ああ、あの椅子は、私のものだ。小さい頃、私が座って絵を描いていた椅子だ。よく見ると、あの白いイーゼルは、先生から譲り受けたものだ。足の下の方が三本とも違う色に塗られているのが、良い証拠だ。
 なのに、キャンパスは真っ白だった。こんなにも描きたいものが渦巻いているというのに、あのキャンパスはまだ白いままだ。
 描かなきゃ、と、私の中で私が言う。その言葉に、私も賛成だった。
「速水さん、教えてくれてありがとうございます」
 速水さんに、深々と礼をする。顔を上げたときの速水さんは、満足そうな表情をしていた。
 さあ、と、イーゼルの方を向くと、後ろから、行ってらっしゃい、と声がする。速水さんの声だった。返事をするために、振り向こうとすると、その前に、背中を強く押されて、私は走り出さなければいけなかった。
 先ほどまで冷たかった砂が、ほんのり熱を持ち始めている。
 その砂を蹴り上げて、私は走る。


:::


 布団の中に居るのに、寒気で目が覚めた。
 嫌々ながら起き上がって、部屋を見回すと、なるほど、昨夜開けた窓がそのままになっていた。帰ってきた後、閉め忘れて眠ってしまったらしい……浮かれすぎでしょう、私。
 もう換気は十分だろうと、ピシャリと窓を閉める。欠伸が出るのをかみ殺しながら、レースのカーテンを引いた。
 それにしても、何だか妙な夢を見ていた気が、する。でも、速水さんに会えた気がする。夢の内容は、どうにも思い出せないけれど……
 枕元に準備してあった服に着替えるために、座布団を引っ張ってきて、布団の横に座る。パジャマを脱いで、白いカットソーをかぶり、ニットのチュニックをその上に着た。立ち上がって、厚手の生地のロングスカートをはく。これくらいしないともう寒い。本当に、この土地は夏と冬しかないみたいな気候だ。
 部屋を出て、廊下の床の冷たさに恐々としながら、階段に向かう。階段は、滑り止めの材を敷いているから少しはましだとはいえ、十分に冷たかった。寝起きだから、必要以上にゆっくり、ゆっくり階段を下る。階段を下りきったところで、右手のドアを開けて、洗面台の前に立った。
 お湯が出るまで時間がかかるから、先に蛇口を開く。鏡を見ると、髪にいつもよりすこし癖が強く出ていた。どうしようか、と考えて、左側から右側に向けて編み込みにして、右耳の下で、一つ結びにした。鏡の横の棚の小物入れから、和柄のシュシュをとって、結び目の上につける。そこまでしてから蛇口から流れる水に手をつけると、ようやく温かくなっていた。体をかがめて、お湯で顔を洗う。
 洗顔料を泡立てて、顔を洗っているところで、後ろから足音が近づいてきた。きっと時雨だろうと思った予想は辺りで、後ろから、おはようございます、と耳慣れた声がする。返事をしようにも出来ない状態だから、とりあえずさきに顔を洗ってしまおう、ともう一度身をかがめる。お湯で洗顔料を洗い流して、壁のタオル掛けから自分のをとって、顔を拭いた。
 そして、後ろを振り返る。
「おはよう、時雨」
「速水さん来てますよ」
 間髪入れず、にっこりと時雨が言う。機嫌が良いのか悪いのか分かりかねる表情だ。
「すぐ行きます」
「どうぞお願いします。お急ぎみたいですし」
 それだけ言って、時雨は洗面所を出て行った。私はタオルを戻して、棚から化粧水を取り出して肌にはたく。手のひらで顔をおさえて心持ち馴染ませてから、乳液を、同じように顔全体に広げる。
 そこまでして、もう一度鏡を見た。メイクが出来ないのは仕方がない、時間がないんだもの。普段からしてるのとしてないのと半々ぐらいだから、もういいや、という気もするし。
 灯りを消して洗面所を出て、冷え切った廊下を通って、居間に向かった。
 居間の障子を開くと、卓袱台の前に、和服姿の速水さんが座っていた。
「……おはようございます、速水さん」
 私が言うと、速水さんはこちらを振り向いて、私を見上げながら、口を開いた。
「おはよう、茅乃さん。もう目は覚めた?」
 速水さんの問いに頷きながら、障子を閉めて、居間に入る。いつもの場所にしかれた座布団の上に座って、速水さんに向き合った。速水さんは、体の横に置いた紙袋から何か取り出すと、卓袱台の上に置く。一つかと思うと、もう一つ取り出して、卓袱台の上に置いた。
 二つ並んだのは、昨日私が速水さんに渡した、石だった。
「ありがとう、返すわ」
「いえ、別に急ぐ必要も、なかったんですけど……」
 どうして、二つに。そう言おうとした私を察したのか、速水さんは楽しそうに、悪戯をする子供のように、楽しそうに笑って、口を開いた。
「花が咲いたから、お裾分け」
 そう言って、速水さんはまた私の頭を撫でた。この人は人の頭を撫でるのが好きなのだろうか。でも、今日はいつもより撫でる時間は短く、すぐに手を離すと、袋を持って立ち上がった。
「渡すモン渡したし、忙しないけど、お暇させてもらいます」
「いえいえ、忙しい中、わざわざありがとうございました」
「いやいや、俺が会いとうて来たんやし、気にせんといて」
 ほな、と短く言い、片手をひらひらと振ると、速水さんは障子を開けて外に出て行った。つられて振っていた手を、障子が閉められる音と同時にやめる。多分、時雨に挨拶して出て行くんだろうな。朝ご飯ぐらい食べていっても構わないのに、と考える。まあ、急いでいる、と言っていたから、仕方がないけれど……。
 私は、机の上に並べられた二つの石を、手に取った。一方が、丁度私の手のひらぐらい。昨日速水さんに貸した石だ。そして、もう一方はそちらより一回り小さい。しかし、もう一方にそっくりな、きれいな花の形をしていた。並べてみると、一方がもう一方を拡大か縮小コピーしたと言われても信じてしまいそうになるくらい、同じ形をしていた。
 どうして、速水さんがこの石を持っていたのか。持っていたなら、なんでわざわざ貸してほしいと言ったのか。そして、何故私にこの石を渡したのか。聞きたいことが色々、頭の中に浮かんでくる。けれど、何よりも、忙しい中わざわざ時間を割いて、この用事のためにここを訪れてくれた速水さんの気持ちが、嬉しかった。
 二つの石を蛍光灯の光にかざす。どちらとも、キラキラと光を反射して、きれいだった。
 くるくる、石を回しながら眺めていると、玄関の戸の閉まる音と、家から出ていく足音が聞こえた。




2010.10.28