砂糖衣の白い月


 ただ、何となく、ぼんやりと、昨日買って読み終えた後、机の上に置きっ放しだった雑誌を開いてみた。一般にも結構名が知られた、科学雑誌。普段は貸出で読むのだけど、今回は、メインの特集が興味のあるものだったので、購入したのだ。記事は読み易さを優先していて、お世辞にも専門的な知識に特化しているとは言えなかったけれど、普段触れている本がそんなものばかりだから、息抜きに楽しんで読むには、ちょうど良かった。
 しかし、今はどうかというと、全く楽しめない。ページを開いても、視覚から飛び込んできた情報は、流れていくばかりで、引っ掛かりすらしない。写真が見える、と思っても、その写真の内容までは気に留まらないような感じだ。文字なんて以ての外だった――それは、視覚情報ですらないのだ。
 日曜日の午後の過ごし方が分からなくて、じっと家に籠っていたのが悪いのだろうか。でも、普段は、日曜日の午後といえば、家でじっとして眠っているだけなのだ。そして夕方ごろに起きて、適当に夕食をとって、また眠る。それ以外の過ごし方をしたのがそもそも悪かっただろうか。でも、土曜日の夜に眠ってしまったのだから仕方がない。おかげで月が見られなかった。昨夜は確か、半月の頃だったから、星も一緒に見られただろうに。
 もしかすると、僕はこのまま何としても明日の朝まで起き続け、月を見るべきなのかもしれない。明日も授業はあるのだけど、こんな調子ならば受けない方がマシだろう。教授もきっとそう思うに違いない。あの、眠っている生徒に声を荒げる教師なら、尚更だ。今の僕の調子は眠っているときより悪い。まさに惰性だ。いや、慣性だろうか。初めにいつもと違うことをすれば、その影響は、延々と後々まで及んでくる。
 溜め息を吐きかけて、寸前で止めた。昨日会った隣の少年の顔が思い浮かんだ。柔らかな笑顔で、冗談みたく、溜め息を吐くと幸せが逃げる、と言ったのだ。あれは、何故だっただろう。そばに彼の兄は居ただろうか。目を瞑って、昨日廊下で会った、彼の隣の様子を、思い出そうとする。
 そうしていると、玄関の方から、鍵の開く音がした。僕はすぐに目を開ける。僕が家に居るのに鍵を開けられるのは、隣に住む二人しか居ない。そのうち、やってくるのはきっと空だから、考える必要はない、聞いてみれば良いのだ。僕は何かしら、淡い希望のようなものを感じつつ、部屋の入口にかけた暖簾をじっと見つめた。
 暖簾の真ん中に入った切れ込みから、手が見えた。その、明らかにゴツゴツと骨張った手に僕は少し眉をひそめる。しかし、それ以上考える間もなく、手の主は暖簾をくぐり、部屋に踏み込んでくる。さも、それが自然であるかのような、自分を客と思っていないような、仕草だ。それを本人に尋ねれば、馬鹿にしたような笑いが返ってくるだけだろうけれど。
 「よお、亜子」
 慧さんは、微笑みながらそう言って、僕から見て右側のテーブルの辺の前に座り込んだ。片膝を立てている。右手を伸ばして、何を読んでいたのだ、と、僕が開いた雑誌を自分の方に引き寄せる。僕はその手をもう一度見た。空の手は、もっと柔らかそうな、赤ん坊のようなか弱さを、印象として与える手だったはずだ。この手とは、全然違った。
 少し視線を上げ、雑誌に目をやる慧さんの横顔を見た。聞いてもらえないだろうと考えながら、挨拶のために口を開く。
 「お早うございます、慧さん。何か用ですか」
 「お前が日曜のこの時間に起きてるなんて、珍しいな。それとも、起きるのが早すぎたのか? 」
 雑誌から目を離さず、僕の挨拶もまるっきり無視して、慧さんは言った。予測できたことだから、腹は立たない。ただ、もう一度、溜め息を吐きそうになるのを抑制する。それと同時に、昨日、空の側に静かに佇んでいた慧さんの姿を思い出した。珍しく、一言も言葉を交わさなかった、のだけど。珍しく、空の側だというのに、慧さんは不機嫌そうに顔をしかめていたのだけど。
 考えてみると、些細ではあるが、昨日から、イレギュラーが積み重なっている。しかし、だからどう、というわけでもない。むしろ、どうしようもないというのが、本当の具合だ。
 小さく、しかしはっきりと、何か用ですか、という言葉を、もう一度繰り返してみた。慧さんは、開いていた雑誌を閉じ、僕の方に押し戻すと、同じ手で、ズボンの尻ポケットから、何かを取り出した。もう一方の手は、立てていない方の膝に律義に置かれている。慧さんは、取り出した何かを、僕の目の前に置いた。
 それは、何の変哲もない、ただの携帯電話だった。色はシルバー、スライド式。昨今、誰が持っていてもおかしくない道具だから、慧さんが持っているのも、また自然である。おかしくはない。しかし、僕は非常に驚いた。正直な声をあげてしまう。
 「慧さん……何でまたいきなり携帯買ってるんですか。てっきり、主義で持ってないもんだとばっかり思ってましたけど」
 「だから、その主義に変更あり、だ」
 唇の端を持ち上げ、不敵に微笑む慧さん。思わず気圧され、身体を後ろに引く。
 「来週の水曜から土曜まで、出張になってな。あんまり急なのと、少し長いのとで、空が心配だから、今朝買ってきたんだ。仕方ないだろう? 」
 少し考えて、頷いた。仕方がない、それはその通りだ。慧さんが最優先するのはいつも空だ、ということを、僕はちゃんと知っている。その心配が、ある程度根拠のあるものだということも、同時に知っている。慧さんが主義を変えて携帯を持つことは、仕方がないと思えることだ。
 机の上の携帯を手にとって、キーが見えるようにスライドさせる。明るくなった画面に映るのは、朝焼けの写真と小さなデジタル時計。たぶん、初期設定のまま変えていないだろう。携帯を持ったところで、この人がそんなものにこだわるとは思わない。
 「お前も番号と、アドレス登録しとけ」
 慧さんは僕を見て、携帯を指差しながら言った。特に異論はないので、頷いて、キーを押す。アドレス帳に登録されている名前は、少なくともあ行には一つもない。今朝買ったのなら、まあ当然だろう。
 名前と、電話番号までを続けて入力する。次に、メールアドレスを打たなければならないが、全く、覚えていない。それで、携帯をどこにやったか考え、思いだそうと試みても、何も浮かばない。そもそも、家に持ち帰っただろうか。
 考えてもしょうがないので、とりあえず登録して、携帯を慧さんに手渡した。
 「アドレス、また今度で良いですか? 携帯どこやったか分からなくて、アドレスも覚えてないので」
 「別に構わん。一つ連絡手段があれば、まあ大丈夫だろ」
 慧さんは手元の携帯の画面をじっと見つめ、何かを確かめるように頷くと、それを閉じ、ポケットに入れた。それから立ち上がり、シャツの裾を適当に整え、こちらに視線を寄越す。だが、すぐに何かを思い出したように、携帯を入れたのとは逆のポケットに手を入れて、何かを取り出した。それをこちらに向けて放り投げる。僕は、顔を庇うように上げた手で、投げられたものを受け止めた。
 「鍵、一回返すぞ」
 そう言われて初めて、受け取ったものが何かを知った。腕を下ろして拳を開くと、確かに、隣の二人に預けたはずの家の鍵がある。キーホルダーも、ストラップもつけていない、もらった時のままだ。
 「返されても困るんですけど……」
 「困るな。本来はお前が持っとくべきなんだ」
 「それじゃあ危ないから預けてるんですって……」
 事実、空と慧さんに預けるようになってから、鍵は一度もなくなっていない。確かに不便なこともあるし、周りには邪推されたりするけれど、鍵をなくしてしまうのより、ずっとマシだ。それを知っているはずの慧さんは、腕組みをして、溜め息を吐いた。
 「俺の出張の間だけで良いから、毎日、家に帰ってほしいんだ。なのにこっちが鍵を預かってたら、お前は帰って来るのを忘れるだろう? 」
 一理は、ある。自分で鍵を持っていないから、空か慧さんが確実に家に居て、起きている時間以外には、家に帰ろうとしない傾向が、僕にはある。だから、真夜中に帰ると迷惑だからと、少し良い設備で星を見るために、軽いキャンプの用意をして、一週間も大学に泊まり込んだりするのだ。そうでなくても、やりたいことがたくさんある。家に帰ることを、鍵の理由にかこつけて、拒否したくなるほどには。
 手の中の鍵と慧さんを交互に見つめ、僕は、仕方なく頷く。
 「分かりましたよ。毎日、家に帰れば良いんですね」
 「そうそう……それで、空の様子を見に来てやってくれ」
 何をやってるか分からないから、と付け加え、慧さんは少し、困ったような顔で笑った。珍しい表情だった。ただ、そのことに気をとられている暇もなく、慧さんは素早く後ろを向き、入ってきたときと同じように暖簾をくぐった。
 靴を履き、扉を開けるのを、聞きながら、僕は暖簾の方をじっと見つめる。特に意味はない。ただ、もし慧さんがもう一度顔をのぞかせたら、驚かせることぐらいは出来るだろうか、と考えた。そんなことはなく、邪魔したな、という声とともに、開いたドアが徐々に閉められる音が聞こえた。
 扉が完全に閉められた音の後、鍵がかけられる音が聞こえるのを待つ。しかし、なかなかその音は聞こえてこない。首を傾げようとして、自分の手の中にあるものを思い出す。冷たい鍵、自分の手元に戻ってきた鍵。
 自分への呆れと、約束ごとの面倒臭さに、禁じていた溜め息を吐く。
 今、開きっ放しの扉の鍵を閉めに行くことすら、億劫だった。


 授業が終わるのと同時に、携帯が震えた。すぐ止まるだろうと思って放っていると、なかなか止まらない。どうやら、誰かが電話を掛けてきたらしい。
 教授が教室を出るのを見届けてから、仕方なく、ジャケットの内ポケットから携帯を取り出す。開いて、画面を見ると、この時間に電話を掛けて来るのも納得できる名前が表示されていた。
 通話ボタンを押し、携帯を耳に当てる。
 「どうした? 薄明」
 「お前今ドコ居る? 昼飯一緒に食おう! 」
 問い掛けに問い掛けで答えられたうえ、早口に要求をまくし立てられ、その声の大きさともあいまって、携帯を投げ出したい衝動に駆られる。すんでの所で踏み止どまれるのは、五年になる付き合いの賜物だろうか。返事をする前に一度、咳払いをする。
 「いつもの校舎の二階の端。声、もう少し抑えろよ」
 少し、沈黙。代わりに、先程までは背景の雑音でしかなかった教室内のざわめきが聞こえてくる。何やら、先程まで行われていた授業の批評が飛び交っているらしい。
 「……悪い、気をつけたつもりだった。俺は、お前が居る真上に居る」
 「視聴覚室か。授業は不評みたいだけど」
 「ああ、そうみたいだな。じゃあ、今からそっち行くから、廊下出とけ」
 「はいはい」
 言い終わる前に、薄明に電話を切られる。どことなく噛み合わない会話はいつものことだ。内容がちゃんと理解出来れば、それでも一向に構わないと、諦めはついている。携帯を閉じて、元のポケットに入れた。
 机の上に広げてあるプリント類を一つにまとめ、クリアファイルにしまう。ペン類もペンケースに一纏めにして、二つのものを、イスの下に置いたトートバッグに入れる。ついでに財布の有無を確認すると、ちゃんと、黒い革の財布が底の方に入っていた。中身は見ていないけれど、多分大丈夫だろう。
 トートバッグを机の上に置き、隣のイスにかけていたロングコートを羽織る。それから、コートの下にあった白いマフラーを巻いた。
 忘れたものがないかだけ、もう一度確認し、トートを左肩にかけて、机と机の間を気をつけて歩き、通路に出る。声を掛けてくるクラスメートに短く応じながら、教室を出た。
 そこで、ドアの前でたむろしていた女子の中の一人と、目が合った。普段は見掛けない顔だ。後の二人も同じく、見掛けたことがない。ということは、学部が違うのだろうけど、わざわざ講義の教室にやって来るということは、誰かに用なのだろうか。目が合ったままの女子に、尋ねてみる。
 「誰かに用? だったら呼ぶけど」
 彼女は、答える前に目を逸らした。髪が揺れると、ほのかに柑橘系の香りがする。コロンだろうか。横顔を見ると、耳と頬が際立って赤く、目立っていた。
 「別に良い、です」
 そう言うと、両腕を広げて、後の二人を、廊下の隅まで引っ張って行く。僕はその二人と全く面識がないわけなのだけど、彼女らが困惑していることが、その表情から読み取れた。しかし、彼女らの助けになるようなことを、僕は全く行えない。ただ少し首を傾けて、窓の外を見やった。講義の前には降りしきっていた雪は、既に止んでいる。だが、空にはまだ、重苦しい灰色の雲が、立ち込めていた。不愉快極まりない。夜までに晴れてくれれば良いのだけど、そんなにうまくいく気はしなかった。
 「亜子! 」
 名前を呼ばれたので、振り返る。色褪せたジーンズに、凝ったデザインの黒のシャツ一枚という、真冬にあるまじき格好をした男が、笑顔で立っていた。間違いなく、東薄明だ。こんな馬鹿な真似をする知り合いは、一人しか居ない。
 僕はマフラーをはずしながら、薄明に近付く。
 「果てしなく寒そうだな、その服」
 「そーか? 俺は平気だけど」
 「見てるこっちが寒いんだ」
 投げ付けるようにマフラーを薄明に渡す。薄明は幾度か瞬きを繰り返すと、不機嫌そうな顔つきになって、僕を睨んだ。しかし、マフラーはしっかり首回りに巻き付ける。それから、何かを思い付いたように目を一瞬見開いて、意地悪く微笑んだ。
 「……気色悪いぞ、薄明」
 「うるさいなあ。別に、俺がいつ笑ったって、構わない、だろ」
 言い終えると同時に、薄明は僕の顔に向け手を伸ばした。僕は思わず目を瞑る。すぐに、今まで気付かなかった目の辺りの圧迫感が、消えるのを感じた。
 目を開ければ、薄明が僕の眼鏡をかけて、さっきと同じように、笑っている。
 「お前、眼鏡似合わねーんだよ。何でかけてんだ? 」
 「――余計なお世話だ」
 「それ、俺も言いたかったんだ」
 薄明が僕の肩を叩き、歩き出す。僕は溜め息を吐いて、その後を追った。
 少し廊下を歩いて、薄明が降りてきたものと続いている階段を降る。昼休みになったせいか、人の行き交いが激しい。流れにもまれて、薄明と少し離れてしまう。しかし、自分のマフラーのおかげで見失うことはなかった。癖毛を伸ばしっ放しにし、後ろで一つ結びにしている。髪の色は、艶のある赤っぽい茶色だ。実際は、それだけでもかなり目立っていると言えるのだろうけれど、見慣れてしまうと、それは全く普通のことで、特徴にはなり得ないのだ。
 少し立ち止まって僕を待ってくれていた薄明の横に並ぶと、視線はまだ僕の方が上にあった。高校の頃に比べれば、差は僅かになった。でも、やっぱり僕の方がまだ上だ。
 「で、何で眼鏡かけてんだ」
 風の冷たい屋外に出ると、薄明が言った。そう聞かれ、右手で目と目の間を押さえる。別に、目が悪くて眼鏡をかけているのではないと、薄明ならば分かっているだろう。のらりくらりと言い逃れするのも面倒だ。それに、隠すほど大した理由ではない。
 「めくらましになるかと思って、かけてみたんだけど。似合わないのも承知の上で」
 「その髪とか服と一緒なわけか」
 「まあ……そういうこと」
 薄明の指摘した髪は、ベリーショートと言って差し支えない長さまで切ってある。服、というか、この場合はコートなのだろうけど、それも、合わせを男性用のものと同じにして着ている。言われてみれば、眼鏡と同じく、めくらましの要素が強い。着飾ることの本質がそうなのだから、当然の結果かもしれない。
 なるほど、と頷きながら、薄明は自分のカバンの中をあさっている。僕は薄明が不意にこけたりしないように、少し多めに周りに注意を払った。何もないところでも平気でこける奴だ。別のことをしながら歩くのは、自重した方がよくないか。
 そう思っていると、顔をあげた薄明が、ずいと、何かを僕に押しつけてきた。仕返しだろうかと考えながら、押しつけられたものを受け取る。小さいけれど、丁寧に包装紙で包まれ、リボンまであしらわれた箱だ。重さは見た目どおりといったところか。貴金属が入っている感じではない。
 「……僕の誕生日なら夏だけど、知らなかったか? 」
 「知らないはずあるか。夏も夏、休みも真っ盛りの八月二十日だろ。言いやすくて非常に結構」
 「じゃあ、何だよ、これは」
 箱を振ってみる。中のもの同士がぶつかったのか、小さな音がした。薄明は、不安げに眉をひそめた。
 「中身割れるぞ。壊れ物注意、とは書いてねーけど、どうせチョコなんだから、丁寧に扱えって」
 「チョコレート? 何でまた……」
 「だーかーら、今日は二月の十四日だっての。バレンタインデー」
 「……そうだっけ」
 曜日感覚は辛うじて残っているけれど、日付には全く注意を払っていなかった。いや、バレンタインデーならば、知っていたところで何もしなかっただろう。僕にとっては、一年で二番目に不愉快な行事だ。
 にやり、という感じで笑うと、薄明は、お前はそういうの嫌いだろうけど、と、いやに楽しそうに口にした。
 「なかなか盛り上がってたな、女子どもは」
 「喧嘩売ってる? その言い方」
 「滅相もない。俺の神経はそこまで図太くないね。――ちなみに、それくれたの英語のクラスの女子な。いつも一緒のお友達にもどうぞー、だと」
 薄明が言ったことの最後の方は、聞こえなかったふりをする。飾りたてられた小箱を、さっきの携帯のように投げ捨てたくなるのを必死に我慢して、トートバッグの奥の方に入れ込む。
 だんだん見えてくる食堂の前の人だかりに目を凝らしていると、ふと、さっきの女子の意図が分かった気がした。


 運良く、人混みをかき分け、窓際の隅の方の席を確保できたので、向かい合って座ることにした。何人か見知った顔にあったけれど、皆連れがいるか、薄明の顔を見てから僕に向けて苦笑するかのどちらかで、結局二人での食事になった。別に構わないけれど、相手の態度は気になるものがあった。
 会計の後、トレイを席まで運びながら、それを率直に尋ねてみたのだが、薄明は少し唸って、考え込むように俯いた。黙り込んだまま、席に着き、中華で統一されたトレイの上の料理を食べ始める。どうも、返事は返ってきそうになかった。仕方なく、僕も食事を始めることにする。といっても、きつねうどんの小一杯で、大した量ではない。ゆっくり食べても、なかなかのハイペースで食事をかきこむ薄明より、早く食べ終わるだろう。
 薄明が僕を誘ったということは、彼に空腹の限界が訪れていたということで、その量とペースは、もっとものことだ。対する僕は、世間一般で言われる通常通りの生活で、かなり疲労している。太陽が昇るのと沈むのとに合わせた生活なんて不健康きわまりない。だから、あまり食欲がなかった。この大きさのきつねうどん一杯で、十分だ。
 ラーメンを食べる薄明を眺めながら、先ず、あげを箸で千切って、口に運んだ。ここの麺類は全体的に好みの味だ。大抵何を頼んでも、はずれはない。
 黙々と、あげを食べている間に、薄明も一皿目を平らげた。脇に置いたハンカチで、口元を拭う。ハンカチをそのままにして、初めてこちらに気がついたように、数度目を瞬かせると、口を開いた。
 「気、遣われたんじゃねーの」
 薄明はハンカチを置き、再び箸を持って、二皿目に取りかかった。僕も最後のあげを口にする。それを噛みながら、薄明が、先程の僕の疑問に答えたことに気がついた。
 しかし薄明はその続きは言わなかった。多分二皿目が空になるまで、話さないだろう。食事をしにきているわけだから、当然と言える。とりあえず僕も、薄明に倣って、麺と汁だけになったきつねうどんを食べることにする。つまり、黙々と、麺を口に運んでいくだけだ。普段ならば、湯気で曇る眼鏡に困るけれど、今は薄明がかけているので、止まらずに食べすすめられた。
 学食のメニューは大抵、可もなく不可もなく、という味である。あちこちから学生が集まっているから、地域差でも考慮しているのかもしれない。このうどんもその例に漏れず、関西風、とまではいかなくても、かなり薄い味付けだ。全く食べられないほど悪くはないが、美味しいとほめられるほど良くもない。本当に、許容範囲内、という感じだ。食べられるなら文句はない、という人間が多いのだ。
 良い例が、目の前に座る薄明だ。明らかに、質より量で食事を選んでいる。普段食べない分、尚更なのかもしれない。
 どんぶりの中に麺がなくなって、僕が箸を置くと、薄明は少しだけこちらを見て、すぐに食事に戻った。三皿目の半分まで食べ終えている。空になるまでそうかからないだろう。
 「それだけ食い溜めするなら、普段からちゃんと食っとけよ」
 絶対に聞き入れられない意見を、呆れ半分に呟く。薄明は何も言わず、食べ続けている。多分、食べ終わっても、今の僕の呟きには、答えないだろう。
 大きく開いた口で、最後に皿に残ったものをまとめて平らげ、薄明は箸を置いた。軽くハンカチで口元を拭ってから、両手を胸の前で合わせ、ごちそうさまでした、と呟いた。
 皿を脇に避けて、机に身を乗り出すと、自分のかけていた眼鏡を外し、再び、僕にかけさせる。僕がずれを直すと、押し殺した声で、苦笑いに近い表情で、笑った。
 「やっぱりお前、眼鏡似合わねーわ」
 じゃあ何でかけさせたのか、と聞きたくなるのをこらえ、知ってるよ、と短く答えた。薄明も、だと思った、と簡潔に、表情を変えないまま、言った。
 薄明は、緑の湯呑みについだ麦茶を一気に飲む。もう冷めたのかと思って僕も口をつけてみるけれど、唇に触れたお茶はまだすぐに飲めないほど熱く、思わず、湯呑みを乱暴に机に置く。薄明は少し驚いたような顔でこちらを見た。僕は、その薄明を軽く睨む。もちろん、薄明の性質を忘れていた僕も、悪かった。
 薄明はまた苦笑いをして、湯呑みを手の中でくるくる回しながら、口を開く。
 「お前の……変装? 割とうまいからさ、知らない奴はみんな綺麗に騙されてる」
 「騙される方が悪いんじゃないのか? 全然分からないほどうまくは、振る舞えてない、と思う」
 「大多数は誤魔化されてんだよ、亜子。その証拠に、高校の頃より今の方が、ずっと楽だろ」
 言われて、その頃のことを少し思い返してみる。まず浮かんでくるのは、一人で使っていた天文部の部室で、次に浮かぶのは、屋上から見る空だった。だが、屋上は、どちらかといえば薄明の場所だった気がする。あそこから夜空を見上げたことは、数えるほどしかない。教室やら、運動場やら、講堂の様子は、ほとんど思い出せなかった。それらは、生物的な意味でない女、としての自分を強要してくる場所でもある。そのために覚えていないということだろうか。確かに、そんな場所に押し込められていた頃と今を比べれば、今の方が断然楽だ。
 だから僕は、薄明に向けて一度頷いた。薄明は、少し呆れたような顔で溜め息を吐いた。何でかと思う間もなく、カン、と硬質な音をさせて湯呑みを置く。
 「誤魔化された連中は、アホみたいなこと言って喜んでるぜ。顔見知りが、俺と居るお前避けたのも、どーせそのせいだろ」
 言ううちに、段々声が険しくなっていった。腹を立てているときと同じ声だ。何に腹を立てているかまでは、当然分からない。薄明が言うまで僕がそれを知ることはないけれど、おそらく薄明のことだから、すぐに自分が腹を立てていた対象も忘れて、我に返ったように、笑うだろう。
 自分が机に置いた湯呑みをしばらく見つめて、じっと動かなかった薄明は、ふっと顔を上げると、僕の思ったとおりに、少し決まりが悪そうな、笑顔を見せた。僕もそれに、首を傾けて笑うことで応じる。それが合図だった、というわけでもないのだけど、僕と薄明は同時に、食器を重ねて、一方のトレイに重ね、更に空のトレイの上にそのトレイを重ねるという風に、片づけを始めた。
 「そういやお前、最近まともに、家に帰ってるんだってな」
 ごくふつうの世間話をする調子で薄明は言った。話題にされるのは構わない事柄だったが、僕はしばらく薄明に会いもしていなければ、連絡もしていなかったので、どうして知っているのか気になった。僕の気持ちを読んだわけではないだろうけど、薄明は、漁先輩から聞いた、と言った。漁にだって、薄明と同じで、特に接触したわけではなかったけれど、漁がそれを知っていることについては、一応、納得した。
 「先輩も驚いてたけど、俺も驚いたぞ。この時期は天体観測には絶好だ、って、前言ってたよな」
 「前って、いつ? 」
 「今日お前に会ったのより前」
 薄明は冗談を言ったつもりなのだろうけど、僕が笑わないでいると、恥いるように微笑んだ。面白くない冗談を、本当に恥ずかしく思っているような感じだった。しかし、僕にしてみれば、その表情の方が冗談みたいでおかしかったし、そのおかげで、面白くなかった冗談も面白く感じられた。
 トートバックを肩にかけ、コートを同じ側の腕に掛けて持つ。トレイに手を伸ばしたら、まだ笑っている薄明の方が少し早くて、僕は伸ばした手を引っ込めた。 机に沿って歩く薄明を横目で見ながら、速さを合わせて歩いた。
 「僕がお日様と一緒に生活するのは、そんなにおかしい? 」
 机の端まで来て、再び横に並ぶようになってから、薄明に尋ねてみる。薄明は、マフラーに顔の下半分を埋めるように、しばし俯く。人にぶつかりそうになりながら、ちゃんと避け、すっと顔をあげると、何度か続けて首を縦に振った。
 予測できた反応だというのに、薄明のリアクションに対して、少し笑ってしまった。
 「実は、僕もそう思うんだ」
 「だったら止めればいいだろう」
 薄明はきょとんとした顔で、至極まともな意見を言った。そういう動作には、どこかしら、ギャップみたいなものが感じられる。僕は苦笑しながら、出来ないよ、と言った。聞こえた自分の声が、意外と弱々しくて驚く。
 「慧さんとの約束だから、破れないよ」
 薄明は僕の方を見ると、すぐに顔を逸らし、つまらなさそうに、ふーん、とだけ、小声で呟いた。それきり黙ったまま、食器の返却口の列の一番後ろに並ぶ。結構並んでいる人は多いけれど、列が進むのは速い。
 食堂の出口が近くなったところで、列を離れようと思い、薄明の肩を叩いた。薄明は、わずかに目を細め、どこか嬉しそうな様子で、口を開いた。
 「亜子は、慧さんのことが、好きなんだな」
 それは、その通りだった。ただ、何故だか、素直に頷くことが躊躇われた。
 薄明に、何を、は分からないけれど、とにかく何かを尋ねようとしてみたけれど、すでに別の人の流れに捕まえられてしまっていたようで、列から離れるしかなかった。流れに逆らうのは、いつでもどこでもしんどい。後ろを振り返り、一人で列に並ぶ薄明を見つつ、出口の方に向かって歩いた。
 外に出る瞬間の向かい風がひどくて、思わず肩を縮める。腕にかけたコートを再び羽織り、左前にボタンを留めた。しかし、まだ寒い。早くマフラーを返してもらおうと考えて、人でごった返す食堂の方を見やった。



 肩のあたりが寒くて、目が覚めた。
 眼鏡を探すまでもなく、焦点が合う。高くて白い天井は余計寒々しい。
 体を起こし、振り向くと、大きい窓があって、下を見ると、暗がりの中に、ぽつぽつと、赤やら黄やらの、人工的な光が散らばっている。上を向くと、濃紺の地の上に、白の絵の具がかすれたような薄い雲が、群になっていた。月も、星の明かりも、あまり見えない。残念に思って、溜息を吐く。
 ふと、ここはどこかという考えが頭を過ぎり、窓から目を離して辺りを見ると、窓の反対側には通路があるのが見える。外からの光も、電灯の明かりもないので、よく見えないが、通路の向こうの壁には、ドアがあるようだった。右手を見ると、机とソファがあり、その向こうには金属の棚がある。視線の高さから、自分が寝ているのもソファらしい、と分かった。
 見覚えのあるところだが、寝起きのせいか、ここがどこかをはっきり思い出せない。情報と情報がうまく繋がってくれない。もう少し時間が経てばきっと大丈夫だろう、と考えて、背もたれにもたれかかりながら、息を吐く。自分の呼吸音以外に、聞こえてくる音はない。驚くほど静かな場所だ。
 静けさに浸るために、目を閉じると、不意に、携帯のバイブのような音がした。目を開けると、机の上に、僕のものらしき携帯が置いてある。ライトが明滅しているそれが震えているのだということに、疑う余地はない。
 とりあえず携帯を手にとって、二つ折りなのを開いてみると、ディスプレイには見知らぬ番号が表示されており、出たいとは思わなかったけれど、バイブを止めるには仕方がないと思って、通話ボタンを押した。
 「……もしもし」
 「寝ぼけてないか、亜子」
 聞き慣れた声が耳元でした。何かを面白がっている、笑いを堪えてながら微笑んでいる感じの声だ。時々、この人はそんな顔を見せる。決して相手を馬鹿にしているのではなく、何かを可笑しく思えることを喜ぶように、微笑んでいるのだ。
 「どうしてそう思うんですか、慧さん」
 「電話に出るのが早かったから。普段のお前なら、面倒くさいか警戒するかで、もっと待たされるだろうからな」
 慧さんは同じ声の調子でそう言った。指摘された僕の方が気付かされるようなことを聞き、感心まではいかなくとも、似たような感情で、息を吐く。その音が聞こえたのか、慧さんは小さい声で笑った。僕は何も言わずに、慧さんの声をただ聞いて、頭がいつもの調子で働き出すのを待っていた。
 自然な調子で笑い声が途切れ、呼吸の音を聞く間もなく、慧さんが、亜子、と呼びかけてくる。はい、と答えようとしたけれど、なんだかそれはふさわしくない気がして、黙っておく。
 「今、どこに居る? 」
 声を聞いて、内容を理解して、もう一度、辺りを見る。その内、ここがどこか、ということと、自分が何をしていたか、ということを思い出した。すぐに、まずいことをした、という後悔がこみ上げる。学科の校舎の休憩スペースで人と話して、少しだけ微睡むのはいつものことだし、それで寝過ごしてしまうのも、よくあることだから、起こしてくれる人も居ないのだけれど、ここ数日だけは、そんなことをしていてはいけなかった。今日はしっかり、ここで寝過ごしてしまっていたのだ。家には帰っていない。
 「ごめんなさい、慧さん。……約束破りました」
 気詰まりな、少なくとも僕にとってはそうである沈黙があった。不安と緊張を抑えることが出来ずに、唾を飲み込んだ僕の方が、それを破った。しかし、そこからもまたしばらく、沈黙が続いて、慧さんは、何も言わなかった。相手の感情が全く分からないから、無視が何よりも怖い。慧さんではなく、慧さんが沈黙しているという状態に、恐怖を覚える。
 もう一度謝ろうと口を開こうとすると、慧さんの溜息が聞こえた。そこに、怒りや失望に似た色はない。ただ、呆れるような諦めるような、同時に、慰めるような感じだった。きっと、人を責めるためではない、温かい溜息なのだろう。
 「空には連絡とった。お前が帰らないからって、ひどく心配して、でも、しっかり夕食は作って、待ってたぞ」
 「……ごめんなさい」
 「謝るなら、俺にじゃなくて空にだろう。……明日の朝で良いから、ちゃんと顔見せろよ」
 「分かりました。明るくなったらすぐ、帰ります」
 「それでいい。ありがとう、亜子」
 何故、当然のことをするだけなのに、礼を言われるのかが分からなくて、黙りこんでしまう。そうすると、自分の呼吸の音しか聞こえない。慧さんの声はとても近くに聞こえるのに、聞こえてくるはずの慧さんの呼吸の音は聞こえない。電話という機械の性質上、それは仕方がないことなのだけれど、今はそういう事実が、酷く不思議に思える。
 じっと耳を澄ましても、呼吸音は受話器の向こうからは聞こえない。それを考え始めると、話し声がなければ、いや、話し声があっても、今は出張先にいるという慧さんが本当に生きているのかどうか、不安になってしまう。ただ、同時に、それに何の不都合があるだろうか、と思う気持ちも、混じっていた。声のやりとりが出来れば十分なのだから、声さえ聞こえれば良いではないか、という考えだ。それもまた、電話という機械の性質だ。
 呼吸をしながら、窓の外に目をやってみる。空にはまだ雲がかかっていて、星も月も見えなかった。
 「今日は、バレンタインデー、だったな」
 慧さんが言うのを聞いて、頷こうとするけれど、伝わるのは声だけだと言うことを思い出して、慌てて、ええ、と答えた。
 「空の誕生日なんだ」
 きっと、伝えるのを躊躇ったからだろう、慧さんは、らしくない間を開けて、小さな声で言った。僕がその事実を知ったのはたった今であり、慧さんとの約束や、僕自身がそれを破ったことから、本当ならば、何かしらのリアクションをとるべきなのだろうけれど、僕は、全く相手には見えないというのに、一人で感心しながら頷いた。空の誕生日が今日だと言うことよりも、空に誕生日があるという事実の方が、衝撃の度合いが大きかったのだ。
 慧さんにしても、それは予想済みだったのだろう。今度は特に間を置かず、少し愉快そうに言う。
 「啓介が、学校でチョコレートを貰ってきたのを、空がひどく羨ましがって、そのとき、じゃあ今日がお前の誕生日だって、その場で決めた。あいつが来た年のことだったから……四歳か。届けを出したのもその頃だったしな。多分、タイミングが良かったんだろう」
 「じゃあ、毎年二人で祝ってるんですか」
 「いや」
 そこで言葉を止め、咳払いをする。そのとき、ふと、慧さんがどこまで出張に行っているのかが気になった。ここよりも寒いところだったろうか。
 「啓介がいる頃はしてたけどな、二人になるとさっぱりだ。俺の誕生日も同じ、全然、祝ってない」
 「確かに、空からも聞きませんでしたけど……」
 よく話す方だとは思うのだけど、そういえば、そんな話はしたことがなかった。祝っていないのならば、当然かもしれない。まあ、かくいう僕も、状況は似たようなものだ。運が良ければ薄明か漁かに、祝いの言葉をかけて貰うぐらいである。
 考え込んでいると、いきなり、慧さんが押し殺した声で笑うのが聞こえて、ぎょっとした。その、笑いながらの少しかすれた声で、でも、と慧さんは続ける。
 「啓介の誕生日だけは、二人で祝うんだ。本人が知るはずもないのに、二人だけで、ケーキ買ってろうそく立てて、歌、歌って。夏だから、大抵アイスケーキ」
 おかしいだろう、と慧さんが言ったので、今度は間髪入れず、ええ、と答えた。その何がおかしかったのか、慧さんの笑い声が少し大きくなる。僕はそれを聞きながら、主役の居ないバースデーパーティーを想像してみた。真っ暗闇の中で、慧さんと空が二人、二十二本のロウソクを立てたアイスケーキを挟んで、向かい合っている。声を合わせて歌を歌って、二人同時にロウソクの火を吹き消すのだろう。
 僕はまだ啓介という人に会ったことがないから、そこに三人目を加えた想像というのは出来ない。僕かその人かが死んでしまわないうちに会えると良いのに、と思う。慧さんの弟で空の兄である人と、会って、話してみたいと思う。
 そう考えていると、慧さんと空がパーティーをする理由を、一つ、思いつく。要するに、それは祈りなのではないだろうか。そこにいない人が、どこかで生きて、無事に年をとることを、願うための祈り。二人はそこにいるのだから、互いの誕生日を祝う必要はないのだけれど、三人目は、そこにはいないのだ。電話の向こうの相手よりも、ずっと遠いところにいる。声すらも届かない。意味があるのかどうかも分からない。それはまさに、祈りと呼ぶのに相応しい。
 ただ、僕はそれを慧さんに言う気にはならなかった。もしそれが当たっているとしたら、慧さんは言われるまでもなく、その理由を理解しているはずで、外れているとしても、僕の言うことは慧さんにとって何ら新しい視点を提供しないだろう、と思った。でもそれだけではない。何となく、今、このタイミングで、慧さんにそれを伝えるべきではないと思ったのだ。
 小さく溜息をついた。受話器の向こうからは、衣擦れの音がする。続いて、足音と、カーテンを引く音が聞こえた。
 慧さんも、受話器の向こうで溜息を吐いた。
 「今日は満月か。白くて、甘そうだな」
 月を見ているということは、先ほどの音は、立ち上がって窓の側へ行き、カーテンを開けたときのものだったのだろう。僕も再び、窓の外を見る。
 雲は、まだ少し残っているけれど、ほとんどが晴れていた。濃紺の夜空の上には、肉眼で観察できる数個の星と、まん丸な月が浮かんでいる。煌々と輝く月の光は、確かに普段より数倍白く、冷たく感じられた。先ほどの連想から、慧さんが「甘い」と表現したのは何故かを、考えてみる。
 「バニラアイス、ですか」
 慧さんは、いつになく、答えるのに間を置いた。僕はその間も月を見上げる。まん丸く、白く輝いて、冷たく優しい、はっとするような月の光。一言で言い表すのならば、美しい、というのが適切だろう。所々光っていないクレーターの部分も、意図的な装飾のようで、白い光の美しさを引き立たせていた。
 「ケーキにかけた、アイシング」
 短い答えが、返ってきた。
 それを聞いても、僕の印象は変わらない。白くて甘いもので、この月の光に合うものは、間違いなく、バニラアイスだと思う。しかし、残念なことに、慧さんと僕の連想は、全く一致しないらしい。
 それでも、どこにいるのか分からない慧さんが見ている月は、僕が見ているものと全く同じで、空が眠るアパートの一室の天井の上に広がる空に浮かぶのも同じだろうし、啓介という人がいるところにある月も、同じなのだ。これは悲しいことか、面白いことかと問われれば、僕は面白いことだと答えるだろう。主役が居ないパーティーを開く理由と、同じだ。同じものを観察して得られる結果は、本来ならば一致するはずはないし、一致する必要もない。そのすれ違いを楽しむのがコミュニケーションだ。
 再び、カーテンを引く音が聞こえた。
 「俺はもう寝る。お前はどうせ、朝まで起きてるんだろう」
 僕は小さく頷いた。出来るだけ、この月から目を離したくなかった。
 「――おやすみ、亜子」
 ひどく優しい声で言って、慧さんは電話を切った。無愛想なブザー音が耳元で鳴っている。その音の存在は気にならない。慧さんの声はもう聞こえないのだから、この音は、雑踏で聞く話し声と同じ、完全な、背景だ。
 受話器の向こうの慧さんは、果たして本当に生きていたのだろうか。寝ぼけているらしい頭の一部が、しつこくそんなことを考え続けている。きっと、明日の昼になれば分かるのだろう。慧さんは帰ってくる。
 ただ、今は、生きた死体にも平等に降り注ぐ月の光を、見ていたいと思った。


 マフラーに顔を埋め、肩をすくめながら、アパートの階段を上る。早朝という時間帯は、日が昇りきっていない上に風が強いから、寒くて仕方がない。それでも、こんな時間に帰ってきたのは、多分、人恋しかったのだろう。
 結局、あの場所で月を眺め、その間に、雲がすっかり晴れてしまったので、その月と、星の様子をじっと見ながら一夜を明かした。一番美しかったのは、やはり満月だ。いつも通りの姿を見せる星と比べると、数段輝いて見えた。思えば、それは月自体の美しさの違いではなく、観察する自分の側が、いつもと違っていただけかもしれない。つまり慧さんと会話しながら、慧さんに言われて、月を見たということだ。
 他の人に教えてもらったことは、本当に時々ではあるけれど、自分で学んだことより、鮮明に記憶に残ることがある。昨夜の慧さんとの会話は、その時々の方に入るものだったのだろう。
 自分の部屋ではなく、隣の部屋の扉の前に立つ。左腕にした時計が指しているのは、七時前。空ならば確実に起きている時刻だ。
 深呼吸をして、チャイムを鳴らす。電子音の後、近づいてくる足音が聞こえた。ばたばたと、かなり忙しい感じだ。僕は一歩後ろに下がる。すると、間髪入れず扉が外に開いて、中から、もうセーターとジーンズに着替えている空が、姿を見せた。
 目が合うと、彼はにっこりと笑う。
 「お帰りなさい、あっちゃん」
 その笑い方が、いつも通り、あまりに屈託がないものだから、無性に申し訳ない気持ちが起こって、笑い返そうとしたのに、妙に崩れた笑顔しか、作れなかった。
 「ただ今、空。……昨日は、待たせてごめん」
 「ううん。あっちゃんが帰れないような目に遭ってるんじゃなくて良かったよ。学校に居たんでしょ?」
 一度頷く。僕が帰ってこなかった理由を知っているということは、昨夜か今朝かに、慧さんから連絡があったのだろう。昨夜から今の間に僕が連絡を取った相手は、慧さんだけなのだ。
 空が入って、と促すのに従って、片手で扉を押さえながら、部屋の中に入る。暖房がついているのだろう、外との気温差はかなりあって、眼鏡がうっすらと曇るほどだった。
 外側だけでも良いから曇りをとるために、眼鏡を外して、コートの生地で水分を拭き取る。かけ直すと、とりきれなかった水分が少し視界の端に入るが、邪魔になるほどではなかった。かけ直した眼鏡を通して空を見ると、彼の視線は一カ所に固定されている。それを辿ると、僕が右手に提げているビニール袋にたどり着く。
 僕は少し溜息を吐きながら、ビニール袋を開いて、持ち上げ、中身を空に見せた。小麦粉、無塩バター、卵、ラム酒、粉砂糖が入っている。
 「ケーキ、の材料? 」
 空が、自信なさげに言った。本当のところは、空が言ったとおりで、これはケーキの材料である。二十四時間開いている店があったりするから、大学の周辺というのは便利なのだ。空と目を合わせて、今度こそ、ちゃんと笑い返した。
 「ちょっと、作らせてもらえるかな。道具と砂糖とオーブンレンジ、貸してもらえるだけで良いんだけど」
 「――まさか、バレンタインじゃない、よね」
 「うん。誕生日ケーキ」
 当たり前のことを、当たり前のことのように伝えると、どうも空は驚いたらしく、目を丸くした。それから、ゆっくりと二回瞬きをして、顔を思いきり綻ばせる。ビニール袋の持ち手ごと、差し出している僕の手を握ると、しっかりと僕の目を見つめて、口を開いた。
 「ありがとう、あっちゃん」
 その言葉が、昨夜の慧さんとの会話と重なる。慧さんも空も、僕に感謝しすぎではないだろうか。でも、当たり前のことをありがたいと思える心は、とても大切なのだろう。その言葉はじんわりと胸にしみて、温かくなる。
 早くあがって、と空が言うので、玄関のところに座って、ブーツを脱ぐことにした。細身のジーンズの上にブーツを履いているから、布が少し引っかかって、脱ぎにくい。少し苦労しながらブーツを脱いで、後ろを向いて立ち上がると、空が楽しそうな顔でこちらを見ていた。僕が靴を脱ぐのを、待っていてくれたらしい。
 「早く朝ご飯食べよう。昨日のコロッケが残ってるから、それで良い? 」
 「良いよ。僕が帰らなかったのが悪いんだし」
 「そういうことだね」
 何だかそのやりとりがくすぐったくて、一人で少し笑うと、正面に立つ空も少し笑っているらしくて、それがまた、面白かった。空は笑顔で、視線をこちらにやりながら振り返り、部屋の方に歩き出す。僕の方もそれに倣って、歩き出す。きっと今から、二人で賑やかな朝食をとるのだろうと考えると、愉快になってくる。なかなか良い一日の始まりだ。
 昼頃には慧さんも帰ってきて、砂糖衣をかけたケーキも焼き上がっているだろうから、今日の夜は、静かに空を眺めるのではなく、もっと賑やかな一日の終わりを、迎えるのだろう。


2008.4.8