となりのひと /3


 私には好きな人がいる。



 友人と中庭を歩いているときに、久々にその姿を見掛けたので、近付いてみたのだ。
 いつもと変わりない姿だった。
 水色と白のストライプのシャツに、ジーンズ、足下は珍しくサンダルだった。ここ数日、いきなり暑くなったからだろうか。
 私が声を掛ける少し前に、ふっとこちらに気がついて、驚いたように目を丸くする。
 「糸?久し振り」
 私も微笑んで、その、テノールと言っても十分通用する落ち着いたトーンの声に、答える。
 「軽く十日ぶりだよ、三室崎。元気にしてた?」
 「生活自体は健康と言い難いけど、元気だったよ。お日様見るのが十日ぶりかな」
 くすくすとおかしそうに、ちっともおかしくない事実を述べる。並んで歩きながら、私はわざとらしく溜め息を吐いて、腕組みをした。
 「何で三室崎は、一寸目を離すとそうなるかな」
 「だって、大学って便利だから」
 これも幾度となく繰り返したやり取りで、曰く、棟内にベッドがあるから、敷地内にコンビニがあるから、風呂に入らなくても誰も怒らないから、等と、つまり学校に居れば家事や身辺整理をしなくて良いという理由で、三室崎は家に帰りたがらない。しかもその間、本人も言った通り、全く太陽と縁がない生活になるのだから、ただ家に帰らないよりもなお悪い。
 今は特に、長期休暇中なのでそれが顕著なようだ。
 一年と少しの付き合いで、もう、その三室崎の習性自体を治せる気はしていない。
 「今日は家に帰るつもり?」
 私が聞くと、思いっきり顔をしかめる。
 「教授に気持ち良く寝てるところ追い出されたからね……自分が一番住んでるくせに」
 「あの人は例外でしょうよ、あらゆる基準から」
 「そーかな……」
 ただの星好きのおじさんにしか見えないけど、と三室崎は首を傾げる。それはあんたも同じカテゴリーに居るからだとは、教えない。そこは変わらなくて良いのだ。
 気を取り直す意味で、咳払いをした。
 「家に帰るんなら、糸さんが手料理を振る舞ってあげましょう」
 「ロールキャベツが食べたい」
 「……人が言う前にリクエストするんじゃありません」
 「でも、糸、いつも聞くから」
 何が食べたい、と確かに私は聞く。こうして偶然、家に帰る日の三室崎に会った日は、必ずそうする。三室崎がそれを予測しているくらい必然で、私にとっても最重要。絶対口にはしないけれど、本当は、三室崎から聞いてくれたことが嬉しいぐらいに、重要。
 「この暑いのにロールキャベツか。別に良いけどね」
 「ありがとう。感謝してる、糸」
 そして、私にはその言葉だけで、十分。
 肺に吸い込む夏の空気さえ新鮮に感じられる。
 かなり無理やり、普通に言葉を続ける準備をして、三室崎の笑顔を見た。



 大学から、そう遠くないスーパーに寄り道をしてから、右手にロールキャベツの材料を引っ提げ、徒歩十五分。
 二階建てのアパートの二階の端の部屋、三室崎の隣の部屋のチャイムを鳴らす。中から、はーいと答える声と、足音が聞こえてきた。
 ガチャガチャと鍵を開ける音がして、ドアが開く。
 出てきたのは、まだ幼さの残る顔立ちの少年。彼はにっこり笑って、口を開く。
 「こんにちは、世紬さん。あっちゃんの家の鍵、ですよね」
 私は頷く。
 すると、彼は、下駄箱の上の小さな箱を開け、その中から、キーホルダーのついた鍵を取り出した。紛れもない三室崎の家の鍵だ。
 三室崎は自分の家の鍵を自分で持たず、こうして隣家に預けている。理由は単純、その方が安全だから、ということだ。事実、三室崎はこれまで何度か、家の鍵をなくしている。
 しかし、そうは言っても、他人に自分の家の鍵を預けるなんて、簡単に出来るものだろうか。或いは、そうまで人を信用出来るか、という問いになるかもしれない。
 そんなことを考えるのは馬鹿らしいと思うが。
 右手を差し出すと、彼がその上に鍵を落とした。手の平の上で金属同士がこすれる音がする。落とさないように、すぐに拳を握った。
 「ありがとう」
 「お礼はあっちゃんに言っといて下さい。僕が世紬さんに鍵を渡せるのは、あっちゃんが預けてくれているおかげですから」
 おかしそうな笑顔に、多分これは冗談なのだろうと思う。
 そんな位のことだから、真剣に考えてはダメなはずなのに、どうしてか、うまく笑い返せず、苦笑のようになってしまう。
 しかし彼は、それを不審に見ることもなく、扉を閉めた。
 閉まった扉の横の表札には、三つの名前が並んでいる。その一番下の名前を、小さく呟いてみた。
 はるみ、そら。
 冗談を言いながら、決してドアに阻まれた距離より近くこちらに寄って来ようとしなかった彼。鍵を取りに来ただけだからと言ってしまえばそれだけだが、それだけでは、ないのだ。
 三室崎の家の扉を、渡された鍵を使って開ける。
 澱んだ空気が流れ出してくるかと思ったが、そうではなく、むしろ心地好い風が一瞬、吹き抜けた。
 少し首を傾げつつ、中に入る。
 見ると、三室崎なら閉めていたはずの遮光カーテンが全て開けられ、網戸の前に、白いレースのカーテンが、わずかに揺れている。
 シンクの周りも綺麗に掃除されていた。冷蔵庫を開けると、食べられそうなものだけが、きちんと並べられていた。
 一人、この部屋で、カーテンを開け、換気をし、水回りの掃除をして、冷蔵庫の中身をチェックしている少年の姿が目に浮かぶ。
 「どんな関係だよ……」
 少し、本当に少し、胸が痛んだ。
 何かと聞かれれば、多分嫉妬が一番近い言葉ではあるのだろうけれど、それだけでなく。多大な羨望と微かな怒気が入り交じったような、胸を塞ぐもの。
 起伏が激しい自分の感情に、内心、舌打ちをする。こと、三室崎に関することにだけ過剰になる、その傾向に。
 溜め息を吐きながら、袋の中のものを、冷蔵庫の中に入れた。



 最近兄のことをよく思い出す。黒猫を連れて帰って来て、すぐにまたどこかに行ってしまった兄。最後に会ったとき、猫になりたいと口にしていた。
 私がそれを言うと、三室崎は不思議そうに首を傾げる。
 「猫になったって、結局どうしようもないことの方が多いのに、どうしてわざわざ、そんなことを言ってみるんだろう」
 私は、違う、そうじゃない、とは答えない。そんな意味じゃないんだとは、三室崎には教えない。教えたところで三室崎には理解が出来ないに違いない。これは決め付けではなく確信だ。
 最近、兄を思い出すだけでなく、その言葉も思い出し、一人、頷く。
 捨て猫になりたいなんて、素敵な幻想。
 自分の紅茶を持って、三室崎の向かいに座った。トレイの上の食事はもうほとんど食べられていて、後は、ロールキャベツ一個を残すのみだった。
 「糸、料理上手だよね」
 「高校から、ずっと自炊だから」
 「複雑だね」
 三室崎ほどじゃない、と言いかけて、止める。本当のことだけど、それこそ意味がないことだ。
 箸でロールキャベツを二つに割り、そのうちの一つを丸ごと口に運ぶ。それほど小さく作ったつもりはないけれど、三室崎には十分だったようだ。
 しばらくもぐもぐと口を動かして、飲み込む。私はその動作を、両手でカップを持って、紅茶の液面に息を吹き掛けながら、じっと見ている。
 綺麗に、おいしそうに食べるな、と感心して、少し目を伏せる。背筋を伸ばして正座している三室崎の、胸辺りに目をやった。
 心臓の位置。
 「でも、猫になっても星は見られるか」
 唐突に三室崎が言った。私は、慌てて顔をあげる。
 だったら別に良いか、とでも続けたそうな風に、笑って、私を見ていた。
 私も、笑い返す。せり上げて来るものを抑えながら、笑い返す。
 「三室崎は、本当にそればっかりだよ」
 「仕方がない。これが僕だ」
 それで良い。三室崎はそれで良い。
 「いつかお隣りさんも、呆れて面倒見てくれなくなっちゃうかも」
 精一杯、からかいを装って明るく言ってみる。
 「……それは、困る、かも」
 三室崎は、少し困った風に、眉をひそめて、呟いた。
 心臓の辺りが、きりきり痛む。



 しばらく会話を続けながら、洗い物をしていたけれど、段々と三室崎の声がおぼつかなくなってきて、ついには返事をしなくなったから、眠ったかな、と思った。
 乾燥機に食器を並べ終わって、テーブルの方に戻ると、やはり、三室崎が、腕を枕に、テーブルに突っ伏していた。
 正面に座って手を伸ばし、髪をかき上げる。やっぱり、目を瞑って、眠っているようだった。
 「みーむろーざき……」
 返事はない。
 髪をかき上げていた手を離して、自分の方に引き寄せ、三室崎と同じように腕を重ねて、そこに右頬を置く。同じようにテーブルに突っ伏して、同じ高さで三室崎を見る。
 寝不足だったのだろうか。眠っている途中で追い出されたと言っていたから、当然かもしれない。
 側にいて眠ってしまえる程度には気の置けない人物と思われていると、自惚れて、良いだろうか。
 眠っている三室崎を見て、考える。このまま、殺してしまえたら、と、猫になるのと同じぐらい素敵な幻想を、描く。制限を知らない子供のように、想像を膨らませていく。
 こんなことを口にしても動じもしないだろう、三室崎の姿さえ、容易に、思い浮かべられて、泣きたくなった。きっと一言、星の見えるところに埋めてとだけ言って、満足げに笑うのだ。それだけが、三室崎にとって価値あるもので、他のことはきっと、ほとんどが関係なくて。じゃあ、私や、隣人の少年はどんな位置付けなのかと考えて、また、泣きたくなる。
 三室崎が起きる気配はない。
 外に出ようと考えて、立ち上がった。本棚の上の地球儀と、ずらりと並んだ天文関係の本が視界に入る。これだけのものに囲まれて、一人で、三室崎はどうやって、暮らしているのだろうか。私はそこにいて意味があるだろうか。
 眠っている三室崎を起こさないように静かに扉を開けた。
 真夏の都会でも、体感温度は昼間よりわずかに下がる。後ろ手に扉を閉めて、深呼吸。体がその温度に慣れていくのを待つ。
 「こんばんは」
 横から聞こえた声に驚いて、そちらを睨んだ。
 扉の前にしゃがみ込んで、気を悪くした風もなく、少年が一人、笑っていた。
 なんでいるのか、と不躾に聞きそうになり、ぐっとこらえる。声を抑えて、いつもどおりに聞こえるようにと考えながら、挨拶を準備する。
 「……こんばんは」
 少年は、一層楽しそうに、笑みを深くした。
 「世紬さんのそういうとこ、好きです」
 多分隠しもせずに不審そうな顔をしただろうけれど、もう取り繕う気もなかったし、必要も感じなかった、多分本人も、ある程度のリスクを考えてのことだろうから。
 でも、不審よりも別の感情が勝っている、気がした。
 「私のどこが、好きだって……?」
 「感情をぐっと抑えこんで、理性で会話しようとしてくれるところ、です。……けいちゃんと、同じだから」
 少し目を伏せて、彼は言った。
 特に嬉しくはなかった。自分のそういったところへの自覚は十分あるが、それを長所とか、美徳とか思ったことはない。それに、まず、私がそういったことをしていると、気付かれたことが腹立たしい。
 「……聞きませんか、僕がなんで外に居るか」
 「聞くはずがないだろうって分からなかった?」
 「分かっても聞きたいことって、あります」
 彼に答える気は全く起こらなかった。少しずつ募っていく腹立たしさを、彼に指摘された理性でもって抑えて、少年を睨む。
 「私は君が嫌いだよ」
 三室崎に近い所も、素直で変に大人びている所も、こんなときでさえ冷静に見える所も、どこか寂しそうな所も、含めて、嫌いだ。
 少年は、空を仰いだ。
 「そう言われると思った」
 下の明かりが眩しくて、空には星が見えないのに。



 逆上したように階段を駆け降りて、そのまま、走った。街灯がポツリポツリとしか立っていない道は、暗くて足下が見えなかったけれど、関係なかった。
 理性で感情を抑えつけ、何になるというのか。圧迫されたものが澱になって積もりに積もり、いつか、吐き出してしまうだけだ。いっそそのときに、素直に言葉に出来れば良い。
 見透かしたような少年の視線が腹立たしかった。そんな理解なんて必要ない。
 足がもつれて、転びそうになった。目の前の電柱に手をついて、踏み止どまる。
 こんなものすら制御出来ない自分ももどかしいけれど、それより酷く、気分が悪いのは、理性を超えようともしない意志。
 いや、それよりも、不安に竦んでいる自分の言葉。自分は、あの少年は、どんな存在なのかと問い掛けられない脆弱な意思。
 三室崎が好きだと。友情でも恋愛でもない感情で、ただここにいる人間として、三室崎が好きだ、三室崎じゃないと駄目なんだと、言えない自分が多分一番腹立たしい。
 だから殺してしまいたいと、口にすることすら出来ない自分に、人をすきになる資格などないと言われれば、それまででも。
 電柱から手を離して、頬を拭う。走ったせいで吹き出た汗なのか、いつの間にか流れていたらしい涙か分からないもので手の甲が濡れる。喉の奥では、塩の味がした。オーバーヒートするなんて、情けない。目許を手の平で押さえると、どうしようもなく濡れていて、それに気付くと、まともに呼吸も出来なくなった。しゃくりあげるようにして、息を吸う。
 次第に落ち着いていく鼓動と呼吸に合わせて、駆け出して来たことを今更後悔する気持ちが起こり始めた。でも、戻ったところで、変に鋭い三室崎は、私の気も知らずに、腫れた目について、尋ねるだろう。それに、またあの少年と顔を合わせないといけないかもしれない。二回目にまで、本当に理性を勝らせることが出来る自信は、ない。
 「……帰ろう」
 自分に言い聞かせるように呟いて、私は足を動かし始めた。それでもまだ流れて来る涙を拭いながら、ぼんやり明るい街灯の下、家に帰るために。



 マンションに帰って郵便受けを見ると、兄からの葉書が届いていた。
 消印はロンドン。表面の言葉はたった一言、引っ越し完了。一緒に印刷された写真の中で、ギターを持った兄は、満足げに笑っていた。
 思わず、私も少し笑った。
 兄は幸せだろうか。幸せになっただろうか。猫になったとしても、そうでないとしても。
 答えは兄に聞くまでもない。
 葉書を机の上に置いてすぐベッドに倒れこんだ。
 猫になりたいと言った兄の、震える声を、思い出す。



 目覚めて、やはり目が開きにくくて、鏡を見なくても、瞼が腫れているのが分かった。休みの間で良かったと、心底思う。
 体を起こして、のびをして、首を何度か回す。開けっ放しだったカーテンから朝日が差し込んでいたけれど、身支度をする気には全くなれなかった。
 それでも、とりあえずベッドからはいだして、そばの机の椅子に腰掛ける。置いてある葉書を手に取って、もう一度眺めた。兄の背後に写っているのは多分部屋の窓だろうけれど、その外には、赤い煉瓦の壁が見えた。それだけで、日本とは違う国の匂いがするのだから、不思議なものだ。
 誰がこの写真を撮ったのだろうか。兄がこうして笑っているから、きっと、兄にとって大切な人が、特別な人が、側にいたに違いない。
 素直に良かったと思える。最後に直接会ったのはもう何年か前のことで、今はどう笑うのか泣くのか、私は知らないけれど、それでも無理やり、兄の笑い声を思って、良かった、と思う。私を支えるものが、それとは違う震える声だとしても。
 何となく、パソコンのスイッチに手を伸ばした。機械音の後、画面がパッと明るくなった。それを見届け、机に突っ伏す。昨晩の三室崎と同じかと考えると、少し、おかしい。
 冷たいままの机に右頬を押し当てて、目を瞑る。葉書をまた机の上に置いた。これは、写真立てに挟んでおこう。いつかイギリスに行くことがあったら、行ってみても良い。兄と兄の特別な人に会いに。
 手探りで、メールブラウザのショートカットキーを叩く。恐らく、メールを受信するまでに、十秒ほどかかる。それを、心の中で呟いた。
 肩は机につけたまま、顔だけを上げ、画面を見る。光の加減で少々見づらいが、アンダーバーに、受信メールが一通あると、表示されていた。右手で、マウスの場所を探り当て、カーソルを新着メールの部分に合わせる。ダブルクリックして、メールを開いた。
 差出人は、三室崎亜子。受信時刻は午前三時。
 思わずちゃんと上半身を起こし、画面に顔を近付けてしまう。
 たった、三行だった。
 私はそれで十分満たされる。
 ありがとうとか、大丈夫とか、ごく普通の言葉でも、私には、何より重要になる。その意味に価値があるのでなく、メール上のその言葉自体に価値がある。
 そんなことだけれど、私は、やっぱり三室崎のことが、すきで、だから、どうしようもないのだと、思い知った。
 届かない声で、呟いてみる。
 「すきだよ、三室崎」
 だから私は捨てられた猫になって、拾ってもらいたいと暗に願った兄を、理解する。その人にとって、拾い上げるほどの価値がある、特別な猫になりたいと、願っている。
 今はまだ、願うだけでも。
 起き抜けのせいか、いつものような胸の痛みも、澱んでいく感情も、見当たらない。いっそ清々しいぐらいの気持ちだった。
 私は、マウスを動かして、返信のボタンをクリックした。現れた小さなウインドウの本文スペースに、自分が呟いた言葉をそのまま写し、すぐに消去する。
 そして、いつも通りのメールを返そうと、考え始めた。



2007.11.11