となりのひと /2


 お前はおかしいと指差して言われた。おかしくて悪いかと噛み付きかえしてやりたかった。でも、後数日で縁の切れる人間だからと我慢してみた。
 思ったより気分は悪くなかった。
 今、自分は笑えている。
 校門を出て、自転車に乗って風を切りながら、思い出す。俺を指差して吐き捨てた奴の顔。印象はおぼろげだ。怒気さえ薄かった。あれで何を告発するつもりだったのか。分からない。理解不能。元から理解できる現象など少ないが、際立って、その理由を知り得ない。
 行動が読めないわけではない(むしろ読みやすい)から、事を起こす時には苦労しないが、先刻のような時は困る。こちらまでそういう風に動いてしまいそうになるからだ。全く、非常時でもないのに感情に動かされる以上に屈辱的な事は、ないというのに……
 壁沿いにしばらく椿が続く坂道を、何もせずに走り抜けた。
 坂の終わりで右に曲がる。すぐそこに校門によく似た門があり、「春海託児所」と、木に毛筆で書いた看板がかけてある。いつになっても変えられていない看板は、今は嘘になってしまっているが。
 その看板の横に自転車を止めて、頭上を仰ぐ。葉の落ちた桜の枝が、寒々しい灰色をむきだしにして交差している。その向こうの空は透き通って青い。思わず溜め息を吐く。息は初め白く、すぐに消えた。
 カバンを持って門の内側にはいると、すぐ横から人影が飛び出してきた。左手側……壁に隠れて門の外側からは見えない。
 胸の辺りに抱き付かれ、悪い気はしないけれど、少し苦しいなどと考えながら、黒い髪をぐしゃぐしゃとかきまわす。
 俺の手を払いのけて、顔をあげた啓介は、睨むような目付きである。
 「って、何すんだよ」
 「頭撫でただけだろ。今からそんなに眉間にしわ寄せてると、とれなくなるぞ」
 「別に、いーし」
 本当にどうでも良さそうに答え、啓介は俺から離れる。
 短パンにトレーナー。防寒具は一切なしで、その上裸足。十二月にあるまじき格好だ。
 「見てて寒いぞ、その格好」
 「悪いかよ。おれはおれなりに考えてんだ」
 「何かあったか」
 啓介は、少しためらうように視線を逸らし、地面を睨む。
 「クツがないってどんな気持ちかと思ったから」
 「それ、学校の話、か」
 「……イチが、クツかくされて、はだしで帰ってた」
 「お前じゃなくて、都が?」
 「そーだよ。おれだけ相手にしてれば良いのに、イチにちょっかい出した」
 あいつら、と、歯ぎしりでも聞こえてきそうな表情で、啓介は言う。悔しいとか悲しいとかだけでなく、もっと根本的などうしようもない気持ち、なのだろう。
 自分も覚えがある。
 「バカなのは構わないけど、それで他人にまで迷惑かけるなって、言えたら良いのに」
 「言えないか」
 「言ったらつけあがるだろ。だからおれは無視してきたのに、イチは……」
 啓介は溜め息を吐いて黙り込む。
 推測するまでもなく分かることだが、都は黙っていられなかったのだろう。それが都の長所で、短所だ。それにこうやって憤る啓介に関しても、また、同じ。
 「……靴は見つかったか」
 「体育倉庫のうらに置いてあった」
 中途半端、と啓介が言う。
 それは、今日俺をおかしいと言った奴と同じだろう。訳の分からない、目的も何も見えない、中途半端な攻撃。生半可な怒り。ぬるま湯のような温度の意志。
 だから俺も啓介も関わらない。徹底的に関わって致命傷を与えたいと思いながらも、手を出せない。理由は簡明。それがポリシーに反するから。
 だから、都は絶対に手を出す。絶対に関わり、相手を攻撃して攻撃される。それが都の、どうしようもない、根本的な性質だから。
 「お前と都と、足して二で割ったら、模範的な小学生の出来上がりだな」
 「足されたくもないし割られたくもない……」
 いたそうだと啓介が言い、俺はその頭に手を乗せた。
 「冗談だ。お前は、お前のままで良い」
 啓介も都も、そんな風に歪なままで良い。無理にその価値観を直す必要はない。そのもとで、自分の思うように、歩けば良い。
 そういう意味では、学校とは改悪機関ではないだろうか。否応なしに、平均と多数決の原理を説かれ、平等の網目の中に組み込まれる。それから自覚的に離脱する俺のような人間は孤立するし、無自覚的に反発する啓介のような子供は、疎外にあう。
 俺の場合は、大人や、彼らの作る世界というものがどうにも信用出来ない結果、身に着いた姿勢なのだが、啓介と都はどうなのか、それについては知りようがない。
 この言葉だって、果たして受け入れられているか、知りようもない。ただ、啓介が少し俯くのを見ているだけ。
 黙っているということは、拒否はされていないだろう。啓介は、嫌がっていても、俺の言うことを聞いてはくれる。
 それで安心するのも馬鹿みたいな話だ。
 自分に呆れて溜め息を吐くと、タイミングが良いのか悪いのか、啓介が顔をあげた。何かを思い出したという風な表情だった。
 「ナチ先生が、来たら俺だけじゃなくって、先生達にも一回顔見せろ、って」
 「……げ」
 たぶん、酷い顔をしていたのだろう。啓介が、顔を横に向けて吹き出した。
 「兄ちゃん、ろこつ過ぎー」
 「啓介……その意味分かってんのか?」
 「多分」
 啓介が俺の手を取る。いつからそこにいたのかと、思わず尋ねたくなるほど、手の平は冷たくなっていた。
 身長の低い啓介に斜め下に引っ張られながら、狭いグラウンドを横切る。古びた遊具を、視界の端に捉える。
 「先生たちの用事が何かは、知ってるよ」
 「何だ?俺をわざわざつれてくる価値があることか?」
 「一人、新しい奴が来てさ」
 下駄箱の前のすのこで靴を脱ぎ、啓介が泥を雑巾で拭うのを待つ。来客用のスリッパはどうにも面倒だから、手は出さない。
 「俺、すげーなつかれてんの」
 「それは良かった」
 「でも、ちょっと変なんだよな、そいつ」
 特にそのことを気にする様子もなく言って、啓介は引き戸に手を掛けた。
 ただいま、と言いながら中に入る啓介に、無言で続く。もう何年にもなるけれど、ここに入るときの言葉がまだ、見つけられなくて、反射的に黙ってしまうのだ。
 確かに自分の家だった場所、だけれど。
 少し辺りを見回して、立ち止まっていると、奥から、ぺたぺたと、裸足で走って来る足音が聞こえた。音の方を見ると、そこには、三歳か四歳ぐらいの、中途半端な長さの髪をした、細い手足の子供が、嬉しそうな顔で立っていた。
 「けいちゃん」
 思わず反応する。その目が見ているのは間違いなく、啓介の方なのに。
 その子供は真っ直ぐ啓介に向かって走って来て、その胸に、抱き付いた。
 「おかえり」
 相手を信頼しきった温かい声で、体重を全部啓介に預けながら、その子供は言った。よくは見えないが、啓介も柔らかい声でそれに答えているところからすると、たぶん、すごくイイ顔を、しているだろう。
 確かに、良く、懐かれている。
 微笑ましいのと同じぐらい、恐怖と嫌悪を感じるほど。
 思わず、一人で拳を握り締めていると、啓介にくっついている子供の目が、一瞬こちらを向いた。しかし、すぐにまた啓介を見上げる。
 「だれ?」
 「けい、だよ。俺の兄ちゃん」
 慧。自分の名前を久し振りに聞く。そう自分を呼ぶ人間は、ここ以外にはまだいない。
 啓介が答えると、子供はまた、大きな目でこちらを見て、俺は耐え切れない気持ちになり、目を逸らした。嫌いでも苦手でもなく、ただ、耐えられない。
 奥から、扉を開く音と、続いて、誰かの歩いて来る音がしたから、何となく、もしかすると救いを求めるような気持ちで、そちらを見た。
 「ナチ、先生」
 「お帰り、慧。啓介もねー」
 ただいまー、と、啓介は近付いて来る先生に応える。
 先生は、啓介に抱き付いている子供と目を合わせて同じ挨拶をしたらしかったが、子供は何も言わなかった。
 「慧、挨拶は?」
 「……ただいま」
 「そうそう。挨拶が全ての基本なんだからねー。戸惑うのも、そりゃあ少しは分かるけど、笑顔で、はきはき言わなきゃ」
 先生には恩があるし、感謝している。それでも、時々こうして見透かしたようなことを言われるのは、少し苦手で、嫌いなわけじゃないけれど、少し、逃げ出したい気持ちになる。
 本当に逃げは、しないけど。
 「啓介から聞いたわね?」
 先生がいきなり声を潜める。啓介が言っていたことを思い出して、頷くと、先生は少し眉をひそめながら、ほほ笑んだ。
 「慧に言うのも、何だか悪い気がするんだけどね。あなたは自分で、ここを出て行ったんだし」
 「別に……出て行って、勝手に帰ってきてるのも、俺だから」
 出て行ったくせに舞い戻ってくるなんて、自分が何を思っているか分からなくて腹立たしいけれど、それでも週に一回、ここに帰ってきて、何ともならない居心地の悪さと戸惑いに、今も少し足が竦むなんて、どれほど、馬鹿らしいことか。
 「あの子のことなんだけど」
 「啓介にものすごく懐いてる、さっきの?」
 俺も先生に合わせて、声をひそめて尋ねる。困った時の表情をしたままの先生は、首を上下に小さく振った。
 少し体を横に向け、露骨に顔を向けない角度で、啓介と、その子供のことを見る。
 「名前が無いの」
 心配が滲み出る声で先生が言った、短い言葉に込められた様々な意味を、瞬間で理解する。
 だから先生はさっき、俺と、啓介のことしか呼ばなかったのだろう。
 あれだけ懐かれても啓介は、相手のことを呼べなかったのだろう。
 怒りとも痛みとも、恨みとも悲しみともとれる、はっきりしない何かが、喉の奥でせめぎあっている。
 こうして考えている自分を焼き切ってしまいそうなそれらを再び奥に押し込めるために、唾を飲み込んで、拳を強く握って、深呼吸を繰り返す。忘れてはいけないけれど、決してそのために動いてはいけないものを、しまい込む。
 ただ少し考えたのは、何で、あんなに大きくなるまで、ということだけだが、その考えも、同じものに変わってしまいそうで怖くなって、すぐにかき消した。
 そうして、一瞬をやっとのことで乗り切って、軽く溜め息を吐いて、握っていた手を開くことが出来た。
 嫌な汗が手の平ににじんでいる。
 「だから、慧に名付け親になってもらおうと思って」
 「俺……って、先生たちが居るだろ」
 「最近の子って、ほら、親御さんが凝ってるからかしら、ちょっと変わってて格好良い名前が多いでしょう?私たちには無理ね、ってことになって」
 少し笑いながら先生は言った。
 「慧なら、何か良い案を出してくれるんじゃないかって、落ち着いたの」
 「そんなに期待されても、俺だってただの十八歳だって」
 「そこが重要なのよ。ほら、行った行った」
 先生は俺の後ろに回り込み、強く背中を押した。必然的に前のめりになり、こけないようにと前に出る。
 頼られるのも、干渉されるのも、本当は嫌いじゃない。ただ、そこにある何かが怖くなって、許せなくなって、逃げ出してみただけで。
 今もまだそれが何かは分からない。
 いきなり飛び出したからだろうか、啓介は驚いたようにこちらを見て、啓介とじゃれていた子供も、俺を見上げた。
 「何だよ、兄ちゃん」
 「……頼まれごと」
 小さな声で啓介に答える。不審そうにして首を傾げている啓介の頭を一回撫でる。そして、子供と同じ高さに目が来るように、しゃがむ。
 その子供は不思議そうに、でも恐怖はない様子で、俺を見た。
 真っ直ぐな目だと思う。それは俺が居心地の悪さを感じたものを、何故か、思い出させるようで。
 「はじめまして」
 子供が楽しげに言った。満面の笑み、というやつだ。さっきまでどんな顔をしていたかも忘れたように、完璧に笑ってみせる。
 逃げ出したい気持ちを抑えて、子供と正面から目を合わせた。
 「初めまして」
 「けいちゃんの、おにいちゃんの、けいちゃん、ですか?」
 名前、という概念はあるのだな、と変に感心しながら、頷く。
それなのに自分には名前がないというのは、どんな気持ちだったろう。それとも、それに何も感じないほど、何かに飢えていたのか。
 居心地の悪さを感じざるを得ない、何か不透明で、不完全で、曖昧模糊としたものに、飢えていたのだろうか。
 それじゃあ、それを認められなかった俺と、全く、似たようなものではないか。
 ほんの少し気持ちが軽くなって、本当に少しだけ、笑うことができた。
 「お前、名前がないんだよな」
 その子供は、首から上どころでなく、全身を大きく使って、頷く。微塵の悲しみも、苦しみも痛みも、感じさせない風に。
 真っ直ぐな、という言葉ではどこか、足りない風に。
 「俺が、お前に、名前をつけるよ」
 子供はまた首を傾げて、きょとんとした表情を見せた。
 その向こうにあるものを透かして見せそうな、大きくて濁りがなくて、真っ直ぐな目。
 少し目を閉じると、すぐに、浮かんだものがあった。
 「――空」
 子供は少し不思議そうに、上を向いて、天井の向こうを指差した。
 「そらがあるのは、あそこだよ」
 啓介が、その後ろから、子供が上に伸ばした腕をとって、ゆっくり、子供自身の方を指差させた。
 「お前が、空の端っこをもらったことにしとけば良いじゃん。格好良いし」
 そら、と今子供につけられた名前を、啓介が楽しげに呼ぶ。子供は啓介を見上げ、やはりしばらく不思議そうにしてから、にっこりと笑った。
 天井向こうの空と、自分とを交互に指差して、言った。
 「ぼくも、そら、だよ」
 そうだよ。透明に透き通って、その向こうにあるものまで見せてしまいそうな目をした、お前が、空だ。
 空は、啓介の腕をゆっくり振りほどいて、両手を広げ、俺に飛び付いて来た。子供の高い体温が、布越しでも分かる。
 「けいちゃん、ありがとう」
 片膝をついてしゃがんだ不安定な姿勢で、空の背中に腕を回して、抱き締める。
 もし、この真っ直ぐな生き物をちゃんと正面から抱き締められるようになれば、高い体温にすすんで触れられるようになれば、大きな目の向こうにあるものを笑って語れるようになれば、少しぐらい、あの気味が悪いものを受け入れることが出来るだろうか、と考える。
 そうであれば良いと、願ってみる。
 「俺も、ありがとう」
 呟いて、抱きかかえた小さな体は余りに軽く、この目に見えるのはまだ、曖昧模糊とした空の色だけだったけれど、空の笑い声と、側でずるいとわめく啓介の声が、意味もなく、くすぐったくて、不覚にも、このままが良いなんていう馬鹿みたいな青写真を、思い浮かべ、かき消すのだった。
 明日の空の色をひっそりと、瞼の裏に描きながら。



2007.11.11